【殺戮のヒーロー】

第41話

【殺戮のヒーロー】


 ***タナトス***

 横を見る。僕の位置から大幅で三歩ほどの距離に壁があり、その土台に割れた窓ガラスが散らばりながらも折り重なっている。そのガラスが光を反射させて、僕の全身を鏡のように映し出していた。僕の表情は仮面のように冷淡だった。表情なんてものは胸中がもたらしている変化なのだから、自分の今の心境を考えれば、見なくても解るのだが、なんとなく映像として確認してみたかったのだ。案外自分の顔なんてものは思っている以上に変化がないものだし、思っている以上に間抜けていたりするものだから。

「どうした、随分余裕じゃないか、この状況で俺から視線を外すなんてよ」

 僕の前方、およそ三十メートルの距離に、ギル・スロエが立っている。

 ギル・スロエ。

 僕は彼を以前から知っていた。紹介されたことがあった、と言うのが正鵠を射る表現だろうか。確かその時の彼は「斑木」と名乗っていた。

「あの、お兄ちゃん、遅くなってごめんなさい。えっと彼は斑木くん。同じサークルのお友達なの。今日は斑木くんにレポートを手伝ってもらってて、それで遅くなっちゃって、本当にごめんなさい」僕の妹は嬉しそうに、そして弁解するように、彼を僕へ紹介した。そう、僕の妹、季華は笑顔でそう言っていた。その時を、幸せそうに生きていた。

 太陽のように照っていたその笑顔が僕の瞳には焼き付くように投影されていた。だから、視界に浮かぶ妹の顔を振りほどこうとしても季華の顔は今もこうして僕の瞳に焼けついている。なのに、そこへ新たに妹の眠るような表情とその周囲の赤黒い配色の光景が、柔和な季華の笑顔を塗り潰す様に、上書きされ続けている。僕の視界と、そして思考へと、妹の眠る姿が侵蝕さながらに複合されていくのだった。だから今の僕は、破顔一笑の季華と瞳を閉じた季華の向こう側に風景を見ていた。僕の視界と思考は全て、妹のあの光景と交錯して働いていた。

 なぜ僕が窓までの距離を三歩ほど、と曖昧に目測しながら、斑木との距離、つまり彼との間合いを三十メートルと断定したかと言えば、たった今僕が、彼からの中段蹴りの衝撃をなんとか緩和しようと後ろへ飛びのきながらも全てを回避しきれずにダメージをもらい、尚且つ体制を整えるべく身体を翻してさらに後退した直後だったからだ。その後退が力一杯の跳躍一歩分であり、僕の最大跳躍距離が二十六メートルであることからの推測。衝撃で飛ばされた距離四メートル、プラス後退した距離の二十六メートル。合計で三十メートル。

 これだけの距離を空けて置きながら、まだ彼の間合いを脱しきれていないことが、僕を不快にさせる。彼のテリトリィに自分がいることに対する不快。そして、自分の力量不足への不快。

 斑木は腰を下げ、肩を前に出すように斜めに構えている。所謂、半身であり戦闘態勢だ。または、臨戦態勢。その手は黒く染まっていた。渇いた、血の色。

 僕は胸を確認するようにさする。やってしまった、と一瞬眼を瞑った。顎を下げ、服を見る。シャツには、べっとりと血糊。視線を左手に移すと、滴るように、粘膜質な液体が、手のひら全体を覆っていた。

 前方の斑木を見遣る。構えを取ったままの姿勢で、笑みを浮かべていた。

 けれど、もう僕は、構えない。

 妹の顔が、今もなお、脳裡を満たしていた。


 話は二時間前へ戻る。

 明日は日曜日で大学の授業もバイトもなく、友人からの誘いも、『仕事』の連絡もない。そんな暇な日は、家で漫画か小説を読んで過ごす僕なのだが、さして読みたい物語も今はなく、気まぐれな思いつきで、今年隣の県の大学に進学したばかりの妹、季華の元へと出向くことにした。僕が季華の部屋を訪れるのは、引越しの手伝いをして以来だったのでおよそ五か月ぶりとなる。季華のアパートは隣の県と僕の住む県との境にあるので、電車を使わずに原チャリで向かっても二十分で着く距離だ。だったら一緒に住めばいいじゃないか、と僕は季華へ提案したが、「お兄ちゃんと一緒だと私、自制心を抑えられるか自信が無いの。お兄ちゃんになにするか分からないからダメ」と、まったくもって逆ではないか、と突っ込みたくなる返答をされた。もちろん冗談で言ったことだとは思うが、確かに季華は、お兄ちゃん子、と形容するには余りある敬愛とも兄弟愛とも呼べるコミュニケーションを、昔から日常的に僕へと注いでくれていた。

 もちろん、言葉としても、行為としても。

 それは飽くまで兄弟としての一線を超えないものではあったが、行き過ぎではあった気がするのもまた事実なので、その行為がどのようなものだったかは、ここでは言及しないことにする。仲睦まじい兄妹であった、と思っていただいて差支えない。

 とまぁ、二十分などという時間は、このような過去を振り返り、今では唯一となった家族を分析し、現在の自分と過去の自分との継続された時の流れの断片を感じ始めたくらいで、あっという間に消費してしまうような、ごくごく微量で、希少な短時間なのである。もちろん時間という概念は、相対的であり、また、絶対的であるがゆえに、二十分という時間は、僕がどんなに短く感じた所で、他者も等しく同等に、二十分という時の流れを感受しているのである。それは或いは永遠とも言えるほどに長く、永劫とも思える苦痛と懊悩をも同時に感受しているのかもしれない。

 季華のアパートに着き、僕は呼び鈴を鳴らした。けれど、何度か鳴らしてみても、まったく反応が無かった。既に出かけてしまったのだろうか。

 メールで先に確認しておけばよかったな、と反省しつつも、もう一度呼び鈴を鳴らした。それから僕は何ともなしにドアノブを握り、回してみた。

 結果的に、彼女の部屋は空いていた。

 扉を引いて、妹の部屋を覗いた。昼間の外の明るさと、電灯の付いていない屋内との光彩の差で、妹の部屋はとても薄暗かった。僕は目が慣れるよりも先に、目を細め、直後、目を見張った。

 反応も無く、鍵の開いている季華の部屋に違和感を抱き、その違和感が異常だと僕に思わせるのには、その光景は一秒もかからせなかった。

 ぐちゃぐちゃだった。部屋が、であるが、それ以上に、妹が、である。

 家具や家電、衣類などの部屋を住居として成り立たせていた装飾品たちは、そのまま燃えるゴミとして出せる位に細かく破壊され、とうの住居人である妹は、生きているか死んでいるか、などという議論よりもまず、それが人であるかミンチであるか、と妹自体を定義し直さなくてはならないくらい、無残に引き千切られていた。悲惨という一言で表現しておかねばならないレベルで、つまり、他人にこの情景を描写して伝えることが憚られる位に、惨たらしくも禍々しい姿に、阿鼻叫喚の姿に、僕の妹、季華はなっていた。

 なぜそこまで酷いその肉片たちを、僕が季華であると認識できたかと言えば、それは季華の頭部だけが、顔だけが、この地獄の様な現実に、ぽっかりと穴をあける様に奇麗なままで転がっていたからである。

 血に沈んだ部屋に。

 その寝顔を僕へ向けて。

 僕は冷静だった。極めて、静寂に、病的なほどに、冷静だった。

 一面が赤黒い巨大なキャンバスに、妹の頭部だけが白い花の如く描かれているようなこの地獄を眼の前に僕は、誰がなぜこのようなことをしでかしたのか、そのことだけを必死に考えていた。

 誰が、僕という器に、憎悪と殺意を詰め込もうとしているのか、を。いや既に、その詰め込まれたものは溢れ、僕はそれに溺れている。這い上がるのは、不可能なほどに。縋りつけるはずの藁ですら、振り払ってしまうほどに。

 妹と過ごした思い出や、想い出を、今はまだ僕は記憶の表層に浮かべられずにいた。逆に、涙を堪えると同じように、奥へと押し込めていた。涙を出せば、僕は折れてしまう。その確固たる予感が、そうさせていたのかもしれない。もしくは、泣くことで、この憎悪が流れて消えてしまうのではないか、という危惧もあったのかもしれない。そんな意識的なものではないにしても。

心臓が軋むくらいに鼓動が激しく打っていることに僕が気付いた時。

 ジーンズのポケットが揺れた。中のケータイが着信を知らせる為に、細かく震えていたのだ。基本的に携帯電話はマナーモードだから、音は鳴らない。

 メールだった。

 冷静な僕は、この時になって漸く、妹の安らかな寝顔から、視線を外した。

 ディスプレイを見る。文字の羅列に視線を走らせた。文字を読みながらも僕の瞳にはしっかりと、そしてくっきりと、妹の惨状が映し出されていた。焼きつくどころの話ではなかった。

 その時、思案し続けていた僕の思考も漸く止まり、これから僕が何をしなければならないか、という目的が決まった。それは安らかな妹の頭部を救急隊員や警察官などの人目にさらすことでもなければ、絶望に打ちひしがれて、悲愴に包まれることでもない。ただただ、この僕の周囲に漂う殺意を、憎悪を、その向かうべき標的にぶちまけること、それだった。

 自己満足、意趣返し、それだけだった。

 メールの内容は、『二丁目にある廃棄処理場の第四プレハブへ、十七時までに来い』ということ。そして、文末には、僕をそこへ駆けださせるに十分なメッセージが、付け足すように記されていた。

 『赤い薔薇園に一輪の白いバラ。気にいったかい?』


 ***キャッチ&トス***

「早かったな。いや、遅かった、と言うべきか」

 そこにいた人物が妹の友人であることに、僕は別段驚かなかった。そして彼が、「礼儀として名乗っておくよ。俺の名前はギル・スロエだ。あんたが殺したアフロディテの弟だよ」と言ったことに対しても、何も思わなかった。いや、思う所はいくらでもあるのだが、僕の精神の振幅は限界点を超え既に停止しており、この程度のサプライズや奇禍など、僕の精神へ影響を与えるには微々たる外部刺激でしかなかった。太陽と地球の大きさの違いなど、太陽系と銀河系の大きさの違いと比べれば無きに等しいことと同様に、この微々たる外部刺激もまた、僕の精神振幅に揺らぎを与えることなど無きに等しかった。彼が妹の最も好意を寄せていた友人であった事実などは最早、僕を動揺させることなど到底引き起こせる露見ではなかったのだ。いや、この場合、彼自らが普段から装っていたポーカフェイスのベールを脱ぎ、その本質の姿を僕へ晒したのだから、露見ではなく、吐露に近いのだろう。そこに誠意の欠片が無いことは自明の理であることだけは確かだ。むしろ敵愾心以外に何があるというのだろう。

「僕が君に言うことは三つある。答えるか答えないかは自由だ。返答の有無でその後の僕の行動が変化することはないから。もちろん、返答の内容によっても変わらない」飄々とした口調が自分でも不思議だった。喜怒哀楽を区分している壁が壊れて、感情が混沌としているようでもあった。

「へぇ、身内を殺されたってのに、随分と冷静だねぇ。あんた俺たちの間でなんて呼ばれてるか知ってるかい? 『冷血の始末屋』または『冷徹の執行者』、或いは、死をつかさどる神『タナトス』なんて呼ばれてんだぜ。俺たちゃあんたのことをさ、そう呼んでいるのさ。敬意と敵愾とをない交ぜにしてね」光栄だろ? と斑木は顎を上げて、僕を見下ろした。

 僕は彼を睨むこともせず、ただ視線だけを向けていた。そこの空間には何があるのか、という区別をする為だけの機能としてでしか僕の瞳は起動していなかった。僕に溜まりに溜まった憎悪や怒りはどこへ消えたのだろうか。斑木が話している間、僕はそんなことを考えていた。

 斑木は、僕が黙っていることに不満そうな口調で話を続けた。「まぁ、いいや。質問だっけ? 聞かず受けずという選択が俺にはあるが、まぁ、聞くだけ聞いておこうかな。そこからあんたの今の心情を分析することにしよう。で、何かな?」

「一つ目だ。これは僕が君たちを殺すことを義務とする存在としての問いだ。君たちと僕ら人類との和平は見込めないのか?」これは彼らとの戦闘前に、僕が必ず彼らに訊ねていた問いだった。戦闘の為の、儀式の様なものでもある。というよりも最早これは、僕の中では形式的なものに成り下がっていた。相手の答えはいつだって同じように決まっていたからだ。話し合いは無駄である。それを僕はいつも突き付けられていた。

「無理な提案だな。そもそも俺がどうこう答えたところで、決まる事項じゃないし。あんたが自分の意思で戦っていない様に、俺だって個人の意思で人類を敵対しているわけじゃない。そもそもあんた自身はこっち側だろうが、どうして身内である俺達に牙を向ける」

 奴の揶揄ともとれる指摘は無視し、僕は質問を続ける。「二つ目だ。これは僕が一人の人間として君に訊ねる問いだ。どうして君たちは僕たち人類に敵対し、惨殺するんだ?」

「僕達人類ねぇ、まぁいいや。そうだな、まぁ簡単な話さ。そうすることが俺たちの意思であり、存在理由であり、存在目的だからだ。欲求とも違うし、欲望とも違う。言うなれば、抗うことのできない、使命に近い」

 使命。

 それは僕も同じことだった。

 理由は存在しない。

 やらなければならない。そういった漠然としていながらも、どこまでも僕を覆い尽くす強制的な確固たる意志によって僕は突き動かされている。そう、突き動かされているのだ。これは自主的でもなければ、意図的でもなく、意識的でもない。僕という存在外からの意思なのだ。それは例えば、赤ん坊を見たら可愛いと思うとか、壮大な自然をみて美しいと思うとか、工場や処理場の廃棄や排水によって汚れた風景を見て、憤りや嫌悪感を抱くなど、そういった、理由なき意思がもたらす欲動だった。

 そして、誰かを愛することも、誰かを憎むことも、同様に。

「うん、よく解った。ありがとう。ならこれが最後の問いになるのだけれど、答えてくれると僕は嬉しい」

「ああいいよ。ついでだ、言ってみな」

「これは僕が兄として、季華の兄としての問いだ。たとえ偽りだっとしても、たとえ君たちの人生の中では瞬きほどの一瞬の時間だったとしても、君は季華の友人として季華の側にいた。そんな君に、季華は特別とも言える好意すら抱いていた。それは君にだって解っていたはずだ。なのに、なぜ、季華を殺した? どうして殺すことができた? どうやったらあんな酷いことができるんだ? どんな気持ちで妹を、季華を殺した? 殺している間も、季華の頭を最後に飾った時も、お前は季華の顔を平然と直視していたのか」

「最後どころか怒涛の質問だなぁ。何を聞かれたのかを思い出すにも一苦労だ。まぁ、なぜ殺したのかについては簡単なことだ、言うまでもねぇ。が、この際だから言っちまおう」斑木は肩を竦めながら、それはな、と続けた。「それはな、お前が俺たちの敵だからさ。ちなみに俺はあんたの妹を殺そうとしたわけじゃない。死ぬぎりぎりの拷問を施して、苦しみもがき、死を懇願するような状態であんたに逢わせようとしたんだけどよ、どうも人類ってやつは軟弱だ。あっけなく死にやがった。たぶん、あんたが来る半刻くらい前に死んだかな。それまではどうにか持たせていたんだがな、内臓取り出したらエネルギィ生産が停止しやがった」加減がよく解らん、と斑木は頭を掻いた。

「そっか、わかった。いや、解らないのだけれど、到底僕には理解することができないということはわかったよ。確かに斑木くん、君は悪くない。君たちに敵対しながらも季華を守れなかった僕が悪いし、君の暴力に対抗できなかった、か弱い季華が悪い。そうだろ?」

「解ってるじゃねぇか」斑木は卑屈に目尻を下げた。「なんだよ、もっと人間らしく理性ぶっとばして怒り心頭、みたいになっているのを期待してたんだけどよぉ。俺様のこと、許してくれんのかい?」なわけねぇか、と口元を歪めた。

「いや、許すさ」僕は顔を上げる。「だから斑木くん、君は」言いながら僕は、肉体の細胞一つ一つに集まった意識、そして熱エネルギィを静かに爆発させ、肉体を変質させた。

 活性化。

 強化。

 硬化。

 放出エネルギィによる対物質侵食化かつ反発化。

 同時に全てを解放させた。

「今すぐに」言って僕は、一瞬で彼の目の前まで移動する。「死ね」

 僕の身体が空気を両断する。僕の進んだ道のりが、跡の様に真空となる。

 空間が歪む。

 空気を押し退けた分、建物が膨張する。

 刹那。

 建物が崩壊した。

 窓ガラスも屋根も、地面も、僕が移動した道のりに引き寄せられるように、崩壊した。圧縮された空気が、道筋となった真空に戻ろうとして、部屋ごと中心へ集まったからだ。さながら小型ブラックホールだ。いや、この場合、エアホールだろうか。

 斑木は僕の突進を避けようともせずに、真っ向から受け止めた。

 僕の右手。

 右膝。

 身体を捻って、左足の上段蹴り。

 順々に受け止められ、流れるように繰り出した僕の打撃は全て防がれた。そう、全ての打撃が。

 彼は微動だにせず、機械的な動作で全てを片手で受け止めた。

「俺の名前はギル・スロエだっつーの」斑木は間髪入れる代わりにそう呟き、防御しつつ縮めていた左足を僕の心臓めがけて弾丸のように放った。威力は大砲並みだった。

 咄嗟に後ろへ飛び退いたが、それでも彼の中段蹴りは垂直に僕を捉え、右肘のガードごと僕の胸に食い込んだ。衝撃によって加速する身体を、僕はもう一度高く飛び退くことで速度を緩和させた。地面は地雷が爆破したように破裂し、斑木からの追い打ちを僕は回避することができた。僕が後退したことで、中心へ集まった瓦礫と化した建物は、再び方々へ散り散りと舞った。崩れずに残った外壁には弾き飛ばされたガラスなどの破片が突き刺さった。

 僕は鼻から短く空気を漏らす。

 横を見て、崩れたガラスを見遣る。

 僕が映っていた。

 表情のない、お面の様な顔だった。

 祭りの出店に並ぶ、ヒーローのお面よりもお面らしい、無機質な顔だった。

「どうした、随分余裕じゃないか、この状況で俺から視線を外すなんてよ」斑木の鼻に触る声が聞こえる。彼の手は季華の血で黒く染まっていた。乾いた絵具のように、ひび割れて見えた。

 僕は蹴りをくらった胸をさする。はっとして、服を見た。血が服に付いてしまった。

 僕の手もまた、血に染まっていた。乾いていない、潤った血液。それは、僕のものでも、ましてや妹のもでもなかった。

 斑木。

 彼の鮮血だった。

 僕は斑木から切り落とした腕を、彼へ投げて返した。

 怪訝に目を細めて斑木は、放られた単品の腕に視線を集めていた。彼は顎を引き、今度は自身の腕を見遣った。そこにはある筈の腕が無かった。

 違和感に気が付いた様に続けて斑木は腹に視線を落とした。そこで固まっていた彼の表情が変貌した。あからさまに歪んだ。狼狽し、困惑し、平静を欠いていた。それもそのはずである。

 斑木の身体は今、背骨で何とか胴体が下半身と切り離されていない状態なのだから。少しでも動けば、すぐさま自重によって背骨は折れ、身体は完全に断裂するだろう。

 既に斑木の身体は僕の侵食を受けている。放っておいても消滅は免れないだろう。

 ただ僕は、斑木、彼を消したいのではない。

 殺したいのだ。

 僕は彼を、惨殺したいのだ。

 状況を飲み込め切れていない彼の目の前まで僕は歩み寄る。

「僕の打撃を全て防いだのは見事だったよ。でもね、僕の斬撃を受けてはいけなんだよ。打撃と斬撃の区別が付かないようじゃ、君はお兄さんの足元にすら及ばない。影にだって劣るだろうね」

 斑木は立ったまま、口をパクパクとさせ、声を出そうとしている。背骨からの情報伝達が、今はもう、心肺器官へまで到達していないのだろう。故に声も出ない。死にかけの金魚の様だ。

 滑稽。

 僕は彼を人指し指でちょん、と押した。バランスの崩れた上半身は揺れ、プラスチックの割れたような陳けな音をたててから下半身を置き去りにしたまま、地面へ先に崩れた。

 それは、濡れ雑巾数十枚をまとめて地面に落としたような音を発した。

 或いは、トマトを大量に落としてしまったかのような音。

 臓物がこぼれ落ち、叩きつけられた音だった。

 遅れて下半身もギャグのように上半身に向かって傾いた。顔面蒼白になった斑木の頭にタライのように落下した。

 ギャグだ。

 僕は斑木くんを見下ろしながら、鼻で笑う。

 人間でない彼等は、身体を分断した程度で即死することはない。

 しかし今は僕の侵食をも同時に受けているので、消滅も時間の問題、免れることは望めないだろう。

 だから僕は、その時間内で、斑木くんの意識が残っている間内で、出来得る限りの残虐を試してみた。それをここで記すことは割合させていただくことにする。僕のした行為は、妹へのみに捧げるものであったからだ。その行為と、その間の斑木くんの様子を記憶に宿すことが許されるのは、僕の身内以外ではいない。そして僕には季華以外の身内はいないのだ。

 その季華も、今はもういない。

「もういない」ということは、「無」ではない。

 存在したという事実があるからだ。

 その事実だけは、死のあとも消えることはなく、故に残された者は悲しみ、またはその者のことを思い出す。

 季華は存在した。しかし今はもういない。

 けれど僕は存在する。今も僕は僕として居続ける。

 僕という存在は、平和という名の幻想に浸っている社会からしてみれば、正義の味方なのだろう。しかし同時に僕は、正義の味方であろうとしたが為に、そして、社会の秩序と平和の夢を見る者達を守ろうとしたが為に、僕にとって大切な人を守れなかった。守ることができなかった。

 大切な人を、亡くしてしまった。

 大切なものを、失くしてしまった。

 僕の妹が、季華が殺されてしまった。

 それはつまり、僕の敵が季華を殺したということであり。

 それはつまり、僕が季華を殺してしまったということであり。

 それはつまり、この社会が季華を殺したということと差異はなく。

 つまりそれは、お前らが季華を蹂躙し、惨殺したことと同義なのだ。

 だから僕は、僕を取り巻くこの拭いきれなかった、ぶちまけ切れなかった思いを、憎悪を、そして無念を、この清々しいほどに平和一色の幻想的な社会というブランド物の雑巾に押し付けることで、拭ってしまおうと思う。拭い取ってしまおうと、そう思うのだ。

 たとえそれが、悪と呼ばれる不条理極まりない理不尽な行為だとしても、お前らは、知るべきなのだ。そして気づくべきなのだ。

 全力を持って僕は、ぶちまけようと思っている。

 お前たちは、自覚し、反省し、改善していくべきなのだ、と。

 自分たちという社会が、他者の苦痛や懊悩によって支えられていることに。

 平和という幻想が、搾取でしか成り立っていないことに。

 弱者を生み出すことでしか秩序を生み出せていないということに。

 自覚しないというのなら、それでも反省しないというのなら、そして改善する意思と手段を持ち合わせていないというのなら、そろそろ僕が、搾取する側に回ってもいい頃だ、と僕は思うのだ。気付かせてやる時期なのだ、とそう思うから。

 僕が弱者を守るべき存在である以上、強者を生み出させなくすることが、僕の使命なのかもしれない。

 僕以外の強者は、いらない。

 全てを弱者に。平等へ帰す為に。

 この社会の狡猾な秩序を、解体してしまおうと思う。

 僕はこの世界ごと、打ち毀してしまおうと、そう思うのだ。

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