【62度目のビッグバン】

第38話

【62度目のビッグバン】


 パシーは夜に出かける。

 昼間は人がうじゃうじゃ沸いてきて気味が悪い、というのが今日の彼女の感想だ。

 暗闇も気味が悪いからと、夜の明るい道を歩く。

 しばらくするとパシーの影が横から現れて彼女をゆっくり追い越した。次第に影は大きくなっていき、仕舞いには消えて見えなくなる。

 パシーはそれを見て安心するのだけれど、その安心は、横からまた現れる影を見てすぐに消える。

 パシーは気味が悪くなって走った。するとその影もすごい速さで現れては嘲るように彼女を追い抜かす。追い越された途端に速度を増すと、影は巨大化して透明になる。

 パシーは気を抜かない。しばらくするとまた違う奴が現れるから。彼女の周りにはすでに八人の透明な怪物がいることになる。

 パシーはより明るい方へ走る。けれど当初は一人ずつ現れていた影がどんどん数を増やしていく。だから彼女は駆けることをやめ、立ち止まって、うずくまり、目を瞑った。瞼から滲む光を感じながら朝になるのをひたすらに待つ。たまにうす目をして見ると、奴等は彼女を囲ったまま動かない。

 パシーは震えを必死に抑え、怯えを懸命に隠しながら、朝を待つ。

 長い時間、本当に長い時間堪えて、やっとお日様が助けに来てくれた。

 お日様は奴等を一纏めに封印してくれた。勝手に動いたり消えたりしないよう彼女に縫い付けてくれる。

 こうしてパシーはようやく安心して家路を歩くのである。でも早く帰らないとまた気味の悪い奴等がうじゃうじゃと出てくるから、すぐに帰って寝てしまおう、と彼女は思う。

 

 男は息を切らし遠巻きから彼女を見つめていた。

 間に合わなかった、今日も。男は心の中で呟いた。

 何だかもう、どうでもよくなってきた。明日起きても彼女はまたいつものように覚えていないのだ。けど私はこれにいまではすっかり慣れてしまったし、不満な事といっても今は彼女の断片的な成長しか見られないという点と、彼女に触れられないという点だけだ。彼女を見られなくなるよりはよっぽどましだろう。

 男はその場に座り込み、右手で握っていたナイフを投げ捨てた。いつもタバコが入っているポケットを弄る。やはり今日もタバコを持っていた。男は二本取り出し、両方に火をつける。普通に吸う一本と、地面に置く一本。男はタバコを消費するとき、ずいぶん前からこの方法だ。煙に包まれたい、との思いからだった。

 家路を急ぎながら今日の彼女は呟いた。「みんないなくなればいいのに」男にもそれは聞こえていた。聞こえる距離ではなかったが、なんとなく聞こえるのだ。男の気のせいだという可能性は十分にある。だが男はそれを疑ったことはない。

 男は考える。タバコを吸うときは大体同じことを。

 明日は誰もいない、昼も夜も。明日の彼女は思うだろうか、気味が悪い、と。それはわからない、でもきっと昨日の彼女は思ったんだ、そして呟いたに違いない、「誰かいればいいのに」と。明日も呟いてくれれば私は嬉しい。そうすれば君をまた探し出して、遠目から見ることができるから。願わくは刺し殺してやりたかった。でもそれは以前の私。影に怯える少女は儚げで愛おしいと私は思うようになった。夜からも付きまとわれ、昼では私につけ狙われて、けれどそれがなぜだか彼女は知らなくて、本当に愛おしい。次からはナイフじゃなくて双眼鏡を持つことにしようかな、それとも手紙でも書こうか。

 男の足元に、灰が落ちる。足元は煙で隠れている。男の視界は霞んでいく。

 なんだ、もう時間か……。

 彼女が夢を見始める、だから私たちは邪魔をしないようにゆっくりと静かに消えていかされるのだろう。

 まるで、私たちも夢を見るかのように。

「おやすみなさい」

 男は口に出し呟く。確かめるように。まだ現実に存在しているのだと自身へ向けて。

 きっとまたあさっても男は呟くだろう。

 右手にはタバコを。

 左手には可愛い封筒を持って。

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