【ユキ姉】

第34話

【ユキ姉】


 おそらく私が小学校二年生の頃だと思う。

「どうしてひとをころしちゃダメなの?」

 誰でも一度は考えたことがあるだろう、そんな疑問を私は口にした。五歳年上のユキ姉へ向けて。

「どうしてだと思う?」ユキ姉は私へ問い返す。彼女は昔からいつもこうして疑問に対して疑問を返すのだ。

 まずはあなたの考えを聞かせてちょうだい、と。

 まずは考えてから他人の意見を聞きなさい、と。

 私へ諭す様に。

「ひとが死ぬのはかなしいから?」私は考えて答えた。

「なら死んでも悲しくならない人、いなくなっても構わない人がいたら殺しちゃってもいいの?」

「……ダメだとおもう」

「なぜ?」間髪置かずにユキ姉は言う。

「えっとぉ、きっとね、そのひとのお父さんやお母さんや兄弟とかお友だちがかなしむから」

「なら誰からも悲しまれない人間なら殺してもいいの?」

 ん~、と悩んでから「やっぱりダメかも」と私は口にする。

「なぜ?」と口元を緩めてまたもユキ姉は疑問を重ねる。尚も私に考えることを求めた。

「だってさ、ひとをころしたらさ、バツを受けちゃうんだよ?」

「だからダメなの?」

 うん、と私は首肯する。

「なら、罰が無ければ人を殺もしていいのかな?」

 う~ん、と私は悩む。悩む。悩んだけれど実は既にそれほど考えてはいなかった。だって、私が何を言ってもユキ姉は一向に教えてくれる気配はないし、なんだか、からかわれている気がしていたから。少し私は不機嫌になっていた。

「わからない、こうさん」何も勝負していないのに、私は両手を上げた。嬉しくはないから万歳ではないのに、そんな私を見てユキ姉は破顔した。

「どうして人を殺したらダメなの?」口元を窄めてムスッとしながら私は、語尾を強めてもう一度尋ねてみた。ユキ姉だってわからないんじゃないの? そう抗議する様に。

 ユキ姉は幼い私の頭をわしわしと撫でて、いつもよりワンランク上の優しい声で、教えてくれた。

「あーくん、あのね、人を殺しちゃダメなんてことはないのよ。殺したって良いの、別に」


 その時の私は、とても怒ったと思う。ユキ姉がそんな答えを出してくるとは思わなかったし、何よりも、「人を殺しては駄目だよ」と言ってほしかった。

「人だけじゃなく、生き物は殺しちゃダメなの、命は大切なのよ」と教えてほしかった。

「でも、私たちはご飯を食べる為には止むを得ず生き物を殺すけれど、だからこそ、感謝の気持ちと、食事以外の場面で生き物に優しく接する敬愛の気持ちを持たなければならないのよ」と、毅然とした態度で、確固たる理屈をもって、そう断言してほしかったのだと思う。

「人を殺すことはダメなんだよ」と。

 けれどユキ姉は、怒った私を宥める様に、だからね、と私の期待とは裏腹の言葉を続けた。追い打ちをかける様に。「だからね、あーくんがもしも人を殺したくなったら、人を殺す前に、私の所にきてほしいの。そうしたら、私があーくんのことを殺してあげるから。あーくんが人を殺す前に、私があーくんを殺す。ね、いい考えでしょ?」


 ユキ姉は本気で言っていた。私にはそれがよく分かった。むしろ、そのことだけが唯一理解できたことだった。

「人を殺してもいい」と本気で言うような人間は、狂っている、と大人は言う。

 それも、当時まだ小学生だった子どもの私に、ユキ姉は説くように言ったのだ。それを狂っていると評さずに、何と評するのだろうか?

 配慮が足りないでは済まされないし、幼稚だと言うにもユキ姉は成人だった。不肖、浅慮、浅薄、狭量。いくらでもユキ姉のことを批判して、間違ったことだ、と指摘することはできるけれど、大人たちは手っ取り早くユキ姉のような人間に向かって「お前は狂っている」、と否定することが楽だったのだろう。否定ではなく、拒否。何が悪いのかを説明もぜずに、どうしてそう思うかも理解しようとはしなかった。


 実際に、その時の私も思った。ユキ姉は狂っている、と。

 けれど、これであの人は酷く純粋だったのだ。どこまでも無垢で突き抜けるほどに廉潔だった。

 ユキ姉の場合、物事の判断基準が、好き嫌いや善悪ではなかった。納得できるかできないか。それだけだったのだから。

 納得できなければ、どんな理屈もどんな道理も受け入れない。納得さえできれば、どんなに理不尽で、卑屈なことでも、受け入れてしまう。

 それって我が儘だと思われるだろうか?

 でも私は思う。我が儘というのは、他人を困らせたいという、一種の愛情表現なのだと。

 困らせることで、人は誰かしらに干渉してもらえるから。誰かに干渉してもらう為に一番手っ取り早いのは、相手を怒らすこと、嫌われることなのだ。そうすればこちらからのどんな些細な干渉に対しても、過剰とも言える反応を頂ける。故に人は我儘を言い、それが道理に合わないことだと分かっていても、誰かを困らせるような言動や行動をとるのだ。そのことを人間という種は、幼い頃から知っている。だからこそ、相手から干渉を受ける為に相手を困らせる。大切な人を、困らせようとする。それが意図的にしろ、無意識的にしろ。

 なのに、あの人ったらそういった意図も意思も欲動も願望も何もないのだ。

 ある種異常とも思えるけれど、それは違うのだと私は思う。本当に異常なのは私たちで、壊れているのは我々の方で、だから、壊れていないユキ姉のことが私たちには異質に思うのだと。異常な存在に見えてしまうのだと。

 壊れているのが普通の世界では、壊れていないものが、異常に見えてしまう。そういうことなのだと私は思う。

 高校生になった頃、私は、ユキ姉の秘密を知った。その時、その瞬間、あのユキ姉を見て、あの光景を見て、私はユキ姉の言葉の意味が解った気がした。いや、理解はできないけれど、解った気はしたのだ。一瞬とはいえ、ユキ姉の言葉の真意に触れた気がしたのだ。

 人を殺してもいいという権利を得た時、それでも誰も殺さないという意思。その意思がなければ、その覚悟が無ければ、誰とでもない自分との契約が無ければ、命の尊さや、儚さ、命が掛替えのないものだという事実、それを口にすることは許されないのだと私は思った。

 殺人が許容される権利。それを持って居ながらに行使しない意思。それこそが、命の価値を普遍かつ不変のものとするのだ、と。

 権利とは、ある「限定された自由」を有する資格を貰うということ。自由であることを許容されるということ。けれどそれは逆説的に、その「限定された自由」以外の自由が許容されていないということでもある。つまり権利を持つということの示す事実は、我々は普段、自由でないということなのだ。社会というシステムに、そして組織という人間関係に、束縛されているということなのだ。

 そこから逸脱する許可を得てもなお、人としての尊厳は手放さないという意思。それがユキ姉にはあったのだ。そしてまた、『人を殺してはならない』という束縛を受けながらにして、殺さないことで人としての誇りを手放してしまう境地に陥った時、ユキ姉は自らの手を血に染めて、自らの人としての尊厳を放棄してまでも、人を殺めることを選ぶのだろう。そうすることでしか、命の尊さを、命の重さを主張することができないから。

 この世のすべては平等に無価値だ。命ですら例外ではないのだと私は思う。しかし、無価値故に平等であるはずの命だが、意思を持ち、人格を有することで、その人格にとっての命は平等ではなくなる。命だけでなく、世界そのものの平等性が崩れ、価値あるもの、価値無きものが生まれるのだ。

ユキ姉は、その価値あるものを大切にする為に、守る為に、消失させない為に、自分という人格を放棄したのだろう。人であることを手放したのだろう。命を奪うこと、人を殺すこと。そのことをユキ姉は自ら選択したのだ。

 そろそろ抽象的な話はこの位にしておこうと思う。口は災いの元。少々喋り過ぎたようだ。この辺で沈黙しなければ、私はまた問われてしまう。

「なぜ?」と。

「なぜなの?」と。

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