【絆より浅く、償いよりも深く】

第32話

【絆より浅く、償いよりも深く】


「人を喰らえばケダモノだ。そんなの私は嫌なんだ」

 ジンは血の付いたナイフを墓標のように雪へ突き立てて、その場を後にした。


 マネコは身体を抱える様な体勢で、防寒具に包まっていた。

 「食べなさい」言うとジンは先ほど捌いた肉を彼女の前へ置く。

 マネコは顔を上げ、防寒具から覗くようにそれをしばらく見詰めていた。

 「あんたは私に、人であることをやめろと言うのか」急に沸き上がったようにマネコは声を荒げた。ここで怒らなければ人間ではない、彼女はそう思ったからだ。それだけの動作で視界がぼやけた。体力は既に限界なのだ。けれどマネコは構わずに続けて怒鳴った。「いくら飢えているからといって人間を食べていい訳が無いだろ!」人としての尊厳を保つために、そして自分の為に。

 氷の壁にもたれ掛かって、白い息を吐きながらジンは答えた。「なら何も口にせず、生きることを放棄することが人間らしさだとでも言うのかい」と彼女の高圧的な反論に対して、努めて静かに口にした。

 「ああ、そうだ。人間はな、守るべきものの為なら死を選ぶことのできる愚かくも気高い生き物なんだ。人間を食すくらいなら、私は死を選ぶ」マネコは言いつつ、勢いに任せて起こした身体をもう一度防寒具に包ませた。

 「美しく死ぬことを求めているだけとしか思えない言い草だね」ジンは説き伏せる様な穏やかな口調で続ける。「どんなに惨めになろうとも生きることを諦めないからこそ命は尊く、惨めに生きていても尚そう思うことができるからこそ人間は気高いんだよ。いいかい、人間であることを捨て、人肉を食しながらも生き抜くべきなんだよ、僕達は。たとえそれが獣に成り下がることだとしても、生き抜いたその後に人間に戻れたなら、人間に戻ろうと生きるならば、それは最も高尚な理性を宿している人間らしい行為だとは思わないかい? 人間でなくなることを恐れるのもまた人間らしく尊ぶべき思想だとは思うけれど、人間でなくなることを恐れる余り、命を蔑にするその行為は決して褒められたものではないよ。人間をやめ、その苦痛を乗り越えて尚も己が人間であろうとすることの方が、命の尊さを知っている僕達人間が取るべき選択ではないのかい?」

 マネコは歯を食いしばり、彼を責めるように捲し立てる。「生き残った私たちがどんなに人間らしい生活を心がけたところで、人肉を食した事実が消えることはないんだ! 想像してみろよ! 人の肉を食した。そのことを一生背負い続けなきゃいけない辛さがあんたには解らないんだ」なぜこんな酷いことを私へさせようとするんだ。彼女は嗚咽を漏らす。

 「わかるさ」抑揚の全くないままにジンは答える。

 「ならどうして!」

 「いいかい、苦痛から逃れるだけなら獣にもできるんだ。けれどその目の前の苦痛を敢えて選択して、自らに苦痛を強いながらも生きようとすることが人間にはできるんだよ。それは僕達が死を知っているからだし、死ぬことの怖さと命の尊さを知っているからだ。もしも君が本当に人間らしさを主張してこの肉を食しようとしていないのなら、それは間違っている。人間であることを主張したいのなら、命の尊さを主張したいのなら、生きなくてはいけないんだよ。どんな辛い選択をしてでもね」

 「……でも、だって。だって、その肉は」

 「そうさ」ジンは目の前の肉を優しく、そして愛おしそうに撫でながら言う。「僕の娘だ」

 「なら、どうしてそんな……」マネコと彼との間には、祀られるように置かれた肉。寒さのせいで霜が降り、その霜も既に小粒の氷となりつつある。

 「この子は死んだ。死んだんだ。そして君は生きている。僕だって生きている。もしもできることならば、僕は今すぐにでもこの子に代わって死んであげたい。できることなら、僕の肉を食らってでもこの子に生き抜いてほしかった。それができないこの辛さを背負い続けてまで僕は、生きたくはなかった。でも、僕は君に出会った。今は君が側にいる。そして、君は死にかけている。今ここで僕は娘にできなかったことを君にしてやりたいんだ。君にはどうしても生き抜いてほしいんだ。これは僕の我儘だ。単なる自己満足さ。君を餓死させて、凍死させて、これ以上僕は後悔したくない。この辛さを増やしたくないんだ。もし君がこの子の肉が嫌だというのなら、僕の身体を食べればいい。僕はマネコ、君の為なら死んだっていいんだ。元より僕にはもう、命よりも大切だったこの子が、今はもういない。もう、いないんだ。これ以上辛い思いを引きずってまで生きたいとは思わないんだ。けどね、それは君の言った、人間を捨てることと同じことなんだ。そうだろ? だから僕は君と共に生き抜いてみせる。だからマネコ、君も生きようとしてくれ。無様に生き抜いてみせてくれよ。人間のしぶとさを、命の尊さとやらを僕にみせてくれよ。そうでなけりゃ、僕は……あの世でこの子に逢わせる顔がない。誰一人守ることのできなかった人間以下の獣としてでしか、僕は死ぬことしかできなくなってしまうんだ。頼む……頼むから娘を食べてくれ。僕を、人間でいさせてくれ。娘に笑顔で逢わせてくれ」

 「……じゃないだろうな」マネコはか弱く呟いた。声は相変わらず震えている。寒さの為なのか、またはそれ以外の為なのか。

 これまでの威勢のいい声とは打って変わって消え入りそうな彼女のその言葉を、ジンは聞き逃してしまった。そんな彼の怪訝そうな表情を見て、マネコはもう一度、震える声のまま、叫んで聞かせた。

 「死ぬつもりじゃないだろうなって言ったんだ! もし生き延びたとして、あんたはその後どうするつもりなんだ? 平穏な生活に戻ったあんたは、私を生き延びさせて満足したあんたは、人間のまま死ぬ為に自殺するつもりじゃないのかって聞いたんだ! 娘に逢いに行く為に死ぬつもりなんじゃないのか!」

 ジンはすぐに否定できなかった。それはこの場合、肯定以外の意味にはなり得なかった。

 「だったらお前は大馬鹿野郎だ」マネコは煙草のように白い息を口から吐き出しながら身体を震わせていた。それはまるで、身体を震わせることで心の叫びを聴かせている様だった。「いいか、私とあんたは人間を捨ててその子の肉を食べる。で、生き延びたところで私は獣のままだ。そこからどうやって人間としての姿を、尊厳を取り戻せばいい? どうしても死にたいんだったらな、私を人間に戻してから死にやがれってんだ」

 「すまない」ジンは力なく頭を垂れた。

 「謝る位なら、私が人間に戻れるまであんたは私の側でその方法を考え続けろ。それが解るまで、私が再び獣でなくなるまで、あんたは死ぬんじゃねぇ。勝手に私の前からいなくなるんじゃねぇ。いいか、これは取引だ。あんたの娘を私は食べる。嫌がる自分を殺して、泣きながら私は食べてやる。だからお前は、私の為に泣きながら生きろ。惨めに生きて、生き続けて、私を人間に戻せ。人肉を食したことで獣にまで落ちる私の為に、あんたはあんたの人生を私に捧げろ」

 ジンは顔を上げ茫然とした表情を一瞬見せた。すぐさま顔の表情を意識して緩め、「わかった。それでいいよ」ありがとう、とジンは再び頭を下げた。

 くそっ。マネコは深く息を吸い、減った腹を括る。「嬢さん、あんたの身体、私が食べるよ」ありがとう。そしてごめんね。

 マネコは凍った肉を口へ含み、シャリシャリと音を立てて頬張った。

 流れる涙は湯気を出し、天へ昇るように儚く無散している。

 その下に今は。

 山猫が一匹。

 佇んでいる。

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