【眠り姫】

第29話

【眠り姫】


「本当に大切なものは目には見えないんだ。でもだからって目を瞑る必要はどこにもないんだよ? 目に映るものにだって大切なものは沢山あるのだから」汚くて醜いものだって沢山あるのだけれどね、と悪戯な歯を覗かせて彼は私の頬にそっと触れ、優しく撫でてくれた。

 私はけれど、その手から伝わる温もりを沢山感じたくって、やっぱり目を瞑ったまま、彼の顔を見ることなく俯いて、なされるがまま、撫でられるままに突っ立っていた。


 次の陽が昇らぬ内に。彼は私の前から姿を消した。

「終わらぬ旅に行ってくるよ」言った彼は夢の中で、淋しく目元を下げていた。それが、私の願望がみせた夢なのか、本当に彼が私の寝ている所へ出発の挨拶に来たのかは判らない。

 ただ、彼が私の前から居なくなった。それだけは何度夢から覚めても変わらない確かなことで、彼が今現在この世界に存在しているのか、存在していないのか、その認識を私はこの拙い記憶に頼るしかなくなった。

 私は酷く落ち込んだ。

「死んだわけじゃないのだから」ベッドの横で母は言った。

 けれどそれは、本当に死んだ人に対して「心の中では生きているのよ」と言うことと同じ、陳腐な慰めに過ぎない。死んでしまったらそれでお終いではないか。逢えないのなら、それで終わりではないか。

 彼は、私から遠く、遠く、離れていった。この空の続くどこか、とは言っても、彼と二度と逢えないのだとしたら、それはもう、私にとっては彼が死んだということと同義であり、心の中心にあった柱が失われ、私の心が崩れるということと直結していて、私も同時に死んでしまうということに等しかった。

 母たちは、いつかまた彼に逢えるのだと安直に考え、そして短絡的に信じているようなのだが、私にはどうしてもそう思えなかった。

 私を置いて出ていった。そのことだけでも、彼が二度と私の前へ姿を現さない、と判断するに値する純然たる事実として、私の世界を急速に閉塞へと導いていた。


 あれからいったい幾つの春夏秋冬を肌に感じてきただろうか。崩れ去った私の心は既に、崩れ去った状態が正常と成り、私を塞ぎつづけた。封鎖された心に季節の風は何一つ届かない。

 貴方は――どうして私を置いていったのですか。

 なぜ私の前から姿を消したのですか。

 瞳に映る貴方の姿だけが、私にとっての生きる意味なのだと折角理解できたのに。

 ああそうか。

 幼かった頃の私は、彼を見詰めることから逃げていた。だから貴方は姿を消したのですね。

 眼を閉じ見える虚像は、私の創り出した都合のいい人格だった。しかしその虚像は実像である彼をも歪ませていたのかもしれない。

 だから貴方は私の前から消えた。

 私の瞳に映し出されることを望みながら、きっと私の心に歪まされることを畏れたのだ。

 私のせいで彼は消えた。

 ならば、私が世界を直視すれば或いは……。

 そう想い、誓った私は瞳を世界に晒す。

 やぁおはよう、私。

 やぁお帰り、僕。

 夢の旅は、どうでしたか?

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