【雨】

第9話

【雨】


「遅れてごめん」

 声が聞こえると同時に肩を叩かれた。振り向きざまに私は抗議した。「ちょっと君、遅すぎだよ」

 けれど彼のびしょ濡れの姿を見て、次の瞬間には思わず、「大丈夫? どうしたの? 傘は?」と怒涛の心配を口にする。

「うん、ちょっと急ぎでさ」彼は少し困った表情を浮かべて、はにかんだ。髪から流れ落ちる滴が頬を優しく伝っていた。


 ***

 彼と付き合い始めて今月で二年が経つ。私は彼との結婚を本気で望むようになっていた。そして今日、大事な話があるから、と呼び出され、いつもの公園で待ち合わせていた。彼はまだ来ない。いつもは私が彼を待たせていたので、少し優越感が湧いた。彼が来たらいびってやろう。悪戯な笑みがこぼれる。

 あなたと結婚をしたいと私が望んでいることを彼は知らない。彼の鈍感で引っ込み思案な性格からして別段期待はしていないのだけれど、それとは裏腹に私の心は躍っている。深呼吸をして、その可愛らしい感情を宥めてみた。


 この公園は、彼と初めて出逢った思い出の場所だ。

「大丈夫ですか?」

 傘も差さず雨に打たれながら蹲っていた彼に、私はそう声をかけた。それがきっかけだった。

 彼がそこで何をしていたのか、どうしてそこにいたのか。未だに彼は教えてくれない。気にならないと言えば嘘になるけれど、彼が私の側にいてくれるだけで、それだけで私は満足だった。それだけが、大切だ。

 ***


 あの時もさ、と私は記憶をたぐる。雨に打たれながら緘黙してしまった彼へ、傘を翳す。「あの時もさ、こんな天気だったよね、初めて会った時」

「うん。今日みたいな雨だったね」彼は差し出された傘の柄を、私の指ごと握った。抱き寄せられ、傘の内に入る。

 濡れている彼の身体は、温かかった。

 強く抱きしめられる。

 こんな積極的な彼は初めてだ。

 どうしよう、顔が熱い。

 これではあまりに私らしくない。まるで思春期の少女だ。

「ねぇ、どうしたの?」私は気恥しさを誤魔化すように、「何かあったの? ていうか傘は?」と先ほどと同じ質問を繰り返した。

「ごめんね」彼は私をことさら強く抱きしめる。

「なにが? どうして君が謝るの」

 何だか、怖い。

 すごく、嫌だ。

 これじゃまるで……。

「ううん。ごめんじゃないね」

 腕のちからが抜けた。彼は私の顔を見た。彼の瞳が、細かく揺れている。

 今まで一度だって逸らしたことのなかったその視線から、私はつい、逃げてしまった。

「今まで――ありがとう」

 言うと彼は、口づけをしてくれた。私がねだるのではなく、彼のほうからされたのは初めてだ。

 私は目を瞑る。

 彼のことが解らない。

 けれどそんなことはどうでもいい。

 彼が今、私の側にいてくれる。

 そのことだけで満足だから。

 唇が離れる。

 彼の温もりも消える。

 私はゆっくりと瞼を開いた。

 彼の姿は、どこにもなかった。


 メディア端末が着信を知らせる。表示からすると彼の端末からだ。

「――――が事故に遭われ、お亡くなりになられました」

 何も聞こえなくなった。

 何も、見えなくなった。

 雨音も、色彩も、現実も。

 灰色な雨雲のように、視界を覆って、思考も覆って、私の世界を覆って、何も見えなくなった。

 ――ただ唯一。

 さっきまで私の腕の中にいた彼の顔が、私の瞼にはまだ鮮明に、焼き付いたままだった。


 雨に濡れて。

 どこか儚い微笑みで。

 頬を伝っていた優しい滴は。

 まるで――。

 涙のようだった。

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