夕日の面影はまるでなかった。鈍色にびいろの雨雲が空を埋めている。降ったり止んだりを繰り返す歯切れの悪さが、かえって梅雨を匂わせていた。

 腕だけを下描いた画用紙を前に、神田は鉛筆を握ったままだった。描くものが決まっていないわけでも、描いた腕に納得がいっていないわけでもなかった。雨が降っている。


「カッターって、あったっけ」


 澄は神田の方を見ずにそう言った。まるで独り言のようだった。だから、聞いていないフリをしてもよかったけれど、壁を叩く雨音と同じで、無視しようにもできなかった。

 溜息を吐いて立ち上がり、後ろの棚からカッターを取り出す。席から微動だにしない澄の後姿はあまりに無防備だった。その撫肩越しにカッターを手渡す。


 小型刃を押し出した澄は、刃先を静かに人差し指に当てる。彼女の指先はバターのように容易く裂けた。赤い血が、プラスチックのパレットに滴る。時が止まったようだった。かろうじて、単語だけが滲み出た。


「澄、おまえ、指」


 澄は表情を変えない。けれど、無表情を作ろうと努めてもいなかった。おもわず彼女の手首を掴む。神田の手の甲に鮮血が落ちた。その血粒けつりゅうは、神田が今まで見たことのある色という色の中で、もっとも鮮烈な色彩を浮かべていた。

 少しだけ躊躇って、神田はそれを口に含む。鉄のえぐみがぼんやりと喉を過ぎていった。


「ねぇ、神田君」


 澄は止まった時間を動かしてみようと試みたのかもしれない。

 両腕を脱力しきり、目をまろやかに細めた彼女の無防備を説明するには、そんなナンセンスな動機くらいしか神田には思い浮かばなかった。


「そのままキスして」


 カッターが澄の手から零れ落ちて、仰々しい音が響いた。手の甲に落ち続ける澄の血はぬるい。人間の体温なんてそんなものだった。冷たくも、温かくもない。


「澄は、なんで死にたがるんだ」

「なんで、そう思うの?」

「さぁ、なんでだろう? もしかすると、俺にもそんな願望があるのかもな」


 澄は目を伏せた。神田は手首を離さなかった。いや、離せなかったのだろう。この手を緩めてしまえば、澄が異次元へと戻ってしまうようで。


「たぶん、人生って冗長だから、かな。ミロのヴィーナスみたいなものよ。私は、私の人生に、奇跡的な欠落を欲しがってるんでしょうね。

 私達って、再現できることをよしとするでしょう? うまく描けたら、また次も同じクオリティのものを、いや、同じものを作ろうとする。芸術だけの話じゃないわよ? たとえば料理とか、スポーツとか、人間の営みすべてにおいて。けど、それが繰り返されると、人生が条件の混合物に思えるの。

 私達の周りには、オブジェクトとか、記号とか、モチーフが多過ぎる。そんなものに囲まれるために生まれてきたわけじゃないのにね」


 点描の二文字は、すでに黒板から消え去っていた。こびりついたチョークの粉末が、おそらく板書があったであろうことを示しているだけだった。


「もうひとつ。お前はキスを求めた。なぜだ?」

「多分、インスピレーション」

「……誰でもよかったっていうことか?」

「違うわよ。むしろ真逆。神田君じゃないといけなかった。あの時、無駄なものがなかった。無欠だった。状況に疑問を挟む必要がなかった。

 今の一瞬は素敵だったわ。曖昧で、けど純粋だった。私の人生があんな一瞬だけで出来ていたらいいのに。でも、もう、同じ瞬間は訪れない。再現性の追求は条件しか生まない」

「澄、もしそう思うのなら」


 澄が求めているのは、欠落ではなく充足じゃないのか。そんな陳腐な反論が口から噴き出るのを、神田は抑えた。彼女の言葉が頭を巡っている。


 ――作者がどこを欠落させるか選んでしまっている時点で、その作品の存在価値を汚しちゃう――


「そう。選んじゃいけないのよ。そこに価値がなくなっちゃうんだから」


 神田を見透かした澄は、涼しい顔で微笑を湛えた。なぜだか身に覚えのある表情だった。けれど、彼女がなにを期待していたのかは、神田にはわからなかった。


「お前は言葉で遊んでるだけだ。もしくは」

「もしくは?」

「ちょっと疲れてるだけだ」

「そうかもね。けど、人間について語るなんて、すべてが後付けでしかないわよ」


 神田はカッターを床から拾い上げた。刃先についた澄の血が乾きはじめている。


「で、どうする? 夏休み、スイス行くか?」

「……話を聞いてた?」

「聞いてたよ」

「なら――」

「再現性の追求は条件しか生まないのなら、澄はなんで絵を描いているんだ?」


 もし、神田が中指を切り落とせば、澄の言う本質がわかるかもしれない。血もたくさん出るだろうから、澄がそれを使ってあの夕焼けを描けるかもしれない。スイスの行くのを思い直すのかもしれない。尊厳死を思いとどまるかもしれない。


 どこが終着点なのかも、なにをもって終着点とするのかも、わからなかった。澄の求めるような、曖昧で、素敵で、純粋な終着点が存在しないことくらい、お互いわかっているはずだ。美術室に流れる静謐がそれをきざしていた。けれど、


「スイスに行くなら俺もついていくよ」


 けれど、雨雲から、夕日が覗いていた。

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赤い夕陽と白い画用紙、澄のスイスと神田の中指 塩月マシ @masimasi

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