赤い夕陽と白い画用紙、澄のスイスと神田の中指

塩月マシ

 ふと目について持って帰った記念美術館のパンフレットは、その高級な手触りに反して、気の利いた代物ではなかった。著名な数点だけをカラー写真で紹介するそれは、どこか商業の匂いを漂わせていて、一度流し見ただけですっかり興は削がれていた。


 三つ折りの軽薄を作業机に投げ出す。椅子に背中を預け直し、眼鏡を外して眉根を揉んだ。ぼやけた視界のまま、神田かんだはそれとなくすみの様子をうかがう。


 ただただ画集に目を落とす姿は石膏像によく似ていた。人工物じみた白い肌は華奢な体を際立たせ、首を隠すほどの長さで直線的に揃えた黒髪が、スタティックな印象を無闇に強調していた。

 彼女の瞳は時々に細まり、見開き、恍惚を浮かべる。それは無機物のように静かな循環だった。


 これがアートというものと向かい合う正しい態度なのかもしれない。言語化しようとするのがそもそも思い上がり、いや、必要がないことなのかもしれない。

 言葉にしないと鑑賞した気になれないのは、きっと自分が芸術に向いてないと、才能がないと、そういうことなのだろう。

 視線に気が付いたのか、彼女は気だるそうにその集中を崩した。


「ゴッホ。月並みでしょう? 笑えば?」

「……それは、ゴッホのフルネームを言わなかったことが面白いって、そういうことなのかな」

「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ゴッホ」


 校庭から運動部の大声が届いている。あと一ケ月もすれば、その怒号の中に蝉の声も混じることになるだろう。六月らしからぬ快晴の放課後、空調の効いた美術室は窓外そうがいの輝かしい青春から隔離されたように快適だった。


「……ピカソ?」

「……今のが笑うところよ」


 失笑をたたえた澄は画集に向き直り、ぺージを摘まんでめくる。か細い人指し指から紙擦れの音がわずかに聞こえた。


 在籍生徒が七人いるはずの美術部の活動は、ほとんど神田と澄の二人だけだ。残りの五人の顔は覚えているが名前は知らない。きっと、ピカソくらいに冗長な名前ではないはずだろうけど。いずれにせよ、覚える気は微塵もなかった。


「神田君は今日はなにも描かないの」


 画集に注意を割いたまま、隅は言葉だけで尋ねてきた。そして、それは返答に困る質問だった。かといって、返答しなかったら澄が困るような問いでもない。

 だから、神田は質問には答えないことにした。


「いや、今日は話があって来たんだ」


 やはり澄は顔を上げなかった。二人がそれぞれ掛けている作業机は版画が出来るくらいの大きさで、せいぜいが油絵くらいしか嗜まない神田にとっては無意味に広かった。


「夏休みにさ、スイスに行かない?」


 澄は画集に目を落としたままだった。澄自身がまるで静物のモチーフのようで、憑りつかれたような真顔で固まる彼女は、神田の目にはどこか内罰的に映った。


「訳のわからないことを言うのね」

「そうかな。ところで、どう?」

「……なんでスイス?」

「進路希望アンケート、スイスって書いてただろ」

「見たの」

「見てしまった、だ。しょうがないだろう。同じ列なんだから」


 二年生になって同じクラスになり、澄の部活以外での姿を知った。おおむね、想像通りだった。話しかければ返すが、自分から話すことはない。集団から浮いてはいない。かといって沈んでもいない。フラットな存在だった。


「……スイスってどんなところか知ってる?」

「この前、ちょっと調べた。赤十字みたいな国旗で、永世中立国」

「……間違ってはないけど、答えになってない」


 神田自身も、まともに答えた気はなかった。壁時計だけが真摯に時刻を示している。前の授業の消し忘れだろう、黒板には点描てんぴょうだなんて、あまり耳にすることはない板書が残ったままだった。


「じゃあ、なんで澄はスイスに行きたいんだ」


 唐突に進路希望アンケートが配られたのは今朝のことだった。大学、専門学校、就職、月並みな三択、けれど若人の無限の未来である三択を突き付けられた神田は迷うことなく大学の文字に丸をつけた。


「赤十字みたいな国旗で、永世中立国だから」

「……答えになってない」


 アンケートは後ろから回して回収となった。他意はなかったが、澄の名前が書かれた中質紙に視線を巡らせてしまった。しかし、丸はどこにもなく、余白にスイスと走り書いてあった。担任の顔が眉をひそめる様が思い浮かぶようだった。


「冗談だったのか?」

「冗談じゃないよ。スイスには行くつもり」


 澄は画集を閉じて、教室後ろの本棚に厚判を直した。作業机に戻ると革鞄を開き、マルマンのスケッチブックを取り出す。神田の視線など意に介さず、澄はベニシジミによく似た表紙を開いた。彼女は白い画用紙と正対する。

 それはきっと、もう特に話すことはない、という意思表示だった。



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