霹靂(七)
「あの記憶の中で俺は、妙な施設の中に居た。でけぇ敷地にいろいろと建っていたが、俺の一番近くにあったのは、背が低くて白っぽい建物だった。その前で三人くらいの連中が写真を撮ってたんだ」
「学校って感じですか」
「多分、そういう類じゃねえ。周りは海辺だったし、何より巨大な煙突みたいなもんが、敷地の奥にあった。上からは煙が出てたぜ。それを考えると、学校というよりは、工場みたいだったな——そんでだ、昼も言ったが、俺が働いてる工場は、屋根板とか造ってんだよ」
そういえばそんなことを言っていた。でも、それとこの話に何の関係があるというのだろう。
「七年くらい前に、大雨があっただろ」
「……ああ、覚えてますけど」
忘れる訳がない。あの大雨で、天空の自宅は流されたのだから。
「昔、ある家を修理したんだ。その家は濁流の被害に遭って半壊したらしく、屋根が抜けて、柱も梁もぼろぼろになってた。工事が始まる前、そこに住んでた幼い子供が見に来たんだ。そいつ、なんか哀しそうだったな。今までずっと暮らしてきた場所の、変わり果てた姿を見る目が」
天空はぼーっと聞いていた。話の内容はははっきりと聞こえていた。ただ虚ろになって聞いていた。
「そいつは毎日、修理中の家を見に来てた。俺はある時、そいつから『早く家を直してくれ』って訴えられたんだ。正直、勘弁してくれとは思ったが、無理もねぇよ。そいつ、父親と二人だけで避難所生活送っててさ、他に住める場所もなかったらしいんだ。だが、工事は予定よりかなりかかっちまった。雨の被害が大きすぎて、他にも仕事が入っていたからな。だけどよ、」
雷破はふっと微笑んだ。
「修理が終わって元通りになった家を見たそいつはさ、幸せそうに笑ったんだよ。その顔見たら妙に嬉しくなってさ、仕事ってこういうもんのためにやるんだなって思ったんだよ。誰かに幸せを運ぶためだってな。それは天空、お前の親父さんだっておんなじじゃないのか」
そう語る雷破は、どこか途方に暮れた笑みを浮かべていた。
「幸せ?」
「俺が思い出した記憶の中で、白い建物の前に色黒の男が立っていた。ヘルメットを被って、涼しそうなシャツ着て、満面の笑みを浮かべてた。いかにも幸せってな感じで。働いている奴は誰でも、自分の幸せと誰かの幸せのために働いているんだ。俺も、記憶の中の奴も、お前の親父さんも」
いまいちぴんと来なかった。天空はまだ働いたことがない。これはきっと、雷破や父親が分かっていることなのだ。
「私のお父さんも、そうだって言うんですか?」
この男の言う通りだとするならば、お父さんは——?
「なら、お父さんは誰の幸せのために働いているんですか」
天空は訊いた。
「知らねーよ、んなこと。親父さんが何のために外界に行ったのであれ、親父さんは誰かのために働いてるんだ。いつか、いいことあるんじゃないか」
雷破は笑みを崩した。厳つい顔で言われても、信じる気になれない。
「いいことって、具体的にどういうことです」
「さあな。お前だけが分かってることじゃないか? 自分にとっての幸せとか」
自分にとっての幸せ?
やっぱり、父親か。
助けてくれたのも、支えてくれたのも、父親。
「お父さんが、帰って来ること……」
「それがお前の幸せか」
だけど、今は叶いそうにない。そう口にすると、雷破は鼻で笑った。
「馬鹿お前は」
「わたっ、なにするんですか」
額にデコピンしされた。
「今生の別れって訳ないだろ。いつかは帰って来るはずさ。とりあえず、気長に待ちな」
彼は締めくくった。一体、どれくらい待てばいいのだろう。そんな答えのない自問をしていると――。
「あらあら、相当お父さんが好きなのねぇ」
突然の声が空間を貫く。天空が部屋の入口を見ると、そこでは
「ふええっ! いっ、いつからそこに!」
天空は飛び上がった。
「最初に阿窟さんが来て、残りはその後に来たよ。意外だねぇ」
「俗に言うファザコンというものか。まあ、私はそういうのがあっても否定はしないぞ、うん」
「ごめん天空ちゃん、悪いけど、一旦あの本返してくれ」
海人、冥、一貴の順に、三人から言葉をお浴びせられた。一人だけならともかく、彼女らにも会話の内容を聞かれるとは……。
だが、そこで終わらなかった。
「ファザコン? 初めて聞くな、和製英語か? どんな意味だ」
「エレクトラコンプレックスのことですかね。ところで、どんな話をしていたんですか?」
「やだ
無駄に幅のある廊下に、七人全員が勢ぞろいしていた。後方にいたハーンと米倉、つなぎはただの野次馬といった感じで話しているだけだが。
「あ、あ、あの、まさか最初から聞いていたりして……」
天空はあたふたしながら言った。頼む、そうでないと言ってくれ。
「ほぼ全部聞いていたよ」
「ぜんぶ……」
「いやー、いい叫びっぷりだったよ」
海人は、天空が口にしたことを後悔した台詞を平気で言い、能天気に笑っている。
こ、この男……!
「な……なあ天空、こいつは表面上くそムカつく野郎だが、根は真面目な奴なんだ。どうか、どうかここは抑えてやってくれ」
「うがぁあああああ!」
雷破がなだめた甲斐もなく、天空は叫んだ。叫ぶ以外、羞恥心を発散する術がなかった。
「あ、あ、あなた達、ひ、人に失礼なことばっかり言って!」
天空は震える指で、彼ら一人一人に指を差していく。
「もう礼儀なんて知るかぁ! これから皆とはため口で話すから!」
住んでいる人には礼儀正しくしなさい、という父との約束の一つ、破ってやろう。
「構わん。ここの人間は年の差に関係なくそうだからな。阿窟も、別にいいだろ?」
「そうねぇ。そっちの方が元気もあっていいわよね」
阿窟も冥も、すんなり許可を下ろす。
「許可されましたからね! 海人、冥って呼ぶんだからぁ!」
「あっはは、ツンツンだねぇ」
「……意外と子供っぽいんだな、こいつ……」
そう呟く雷破を、天空はぎろりと睨んだ。棘のような眼光に、雷破は思わず首をすくめる。
「あなた、子供っぽいって言いましたね? それだけじゃない、今日一日さんざん馬鹿にしましたよね? 緑色とかアホだとか。髪の色は気にしてるんですよ!」
天空は雷破に牙を剥けた。
「は、はあ?」
「そもそも、あなたがドア開けっ放しにしなかったら、こんなことにならなかったでしょ!」
「え、んなこと言われたって、気づかないお前もアホだったろ」
「また馬鹿にしたわね!」
殺気立った熱が拳に溜まっていくのを感じる。これでも自分は、父から護身用に柔道の手ほどきを受けていた。大人の男なら軽く吹っ飛ばすだけの自信がある。
「へぇ、結構ガッツがあるんだね」
「おいお前ら、見てないで助けてくれ!」
海人その他大勢はほくそ笑んでいたり、困ったような微笑をしていたが、それらには雷破を助けるという意思はなかった。むしろ楽しんでいるようにさえ見える。特に一貴は、いい気味だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべている。
「さあ、覚悟はいい?」
仮面をつけていた、その素顔を現した天空。
「おいやめてくれ! 疲れたからってこんな雑な終わり方ないだろ!」
天空は、叫ぶ彼の右頬に弱い平手打ちをした。
恐らく父が帰るまで、天空がここで暮らしていくのだろう。
お父さん。
屋根修理したり、皆の前で辱められたり。
新生活は、初日から大変です。
また明日を迎えていく寮の中で、祝砲が響き渡った。
ただの家出のつもりだった。
たしかに、海を越えて外国まで逃げるなんて、家出の割にはスケールが大それているだろう。でも所詮、自分のしていることは壮大な逃亡劇で、ただの劇でしかなくて、それだけに過ぎないはずだった。
けれど今は、ここがどこだか分からない。自分が夢を膨らませてやって来た、あの東の国であるかという確証さえなかった。
「どうも、こんばんは」
未知の世界で森に迷い込むという絶望的な状況で、とりあえず目の前の男は日本語を発してくれた。どうやら、ここはまだ日本らしい。今はそれだけで十分だった。
「……Who are you?」
ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げ、恐る恐る訊ねる。
「おや、英語圏から来たのかい。なら、こちらも英語で話そうか」
白衣を羽織った男は唇を狡猾に釣り上げた。月光のせいでやけに明るい森の中で、男の目が光ったような気がした。
「僕の名前は服部敬はっとりけい。うーんと……アイアム、ケイ・ハットリ、オーケー?」
服部と名乗った男は流暢な日本語で話した後、片言の英語で言い直した。
「この町へようこそ、歓迎するよ」
テーブルの中の世界 @mizuhira_syu
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