3マス進む:鬼ごっこをする

 走らないとは言え、そして彼がそれを遵守してくれているとは言え、私に勝ち目があるとは思えなかった。

「……」

 最初は『何かの冗談だろう』と、逃げた先にあった物陰に息を潜めて隠れていたのだが、ナイフを突き出されて転げて逃げた。

 階段を上がって逃げようとしたら扉が閉まっていて、殺されかけたから逃げた。

「ふー……」

 呼吸音を努めて抑え、一定のリズムを刻む足音から逃げ続ける。ヒウナさんのナイフは、刃渡りおよそ20センチ。少し長い包丁くらいに見えた。

 ヒウナさんは殺人鬼を自称していた上に異種族。私がリーネア先生の弟子だからといって殺せないことはないだろう。

 至極冷静に考えながら逃げ回る。

(リーネア先生はこれを知らないはずがなかった。……まわりまわって私のためになる何か。アリス先生の『プレゼント』はこれ?)

 殺人鬼との追いかけっこがプレゼントなど。悪い冗談だ。

「お。避けた」

 追い詰められた壁際。振り抜かれるナイフをくぐってスライディング。そのままヒウナさんと距離をとる。

 背後からの追撃は警棒で防いだ。

 防げてしまった。

「……」

 自分に異常が起きている。リーネア先生でマヒしたからでもない。恐怖が振り切れて他の感情に置き換わったのでもない。

 今の私には恐怖心がない。

 ……いや。今日に限らず、いつもなかったかもしれない。

 私が怖がることと言えば自らの記憶に齟齬が発生し、それで人間関係に悪影響をきたすことばかりで、自分に命の危険が迫ったりしても、怖いと思わなかった。

 足を止めてこちらを見るヒウナさんも、いまだに怖いとは全く思えないのだ。

「ヒウナさん」

「何かな?」

「私の体力は有限ですが、あなたの体力は私と比べれば無限のようなものだと思います」

「そうだな。で?」

「質問ついでに休息をとらせていただけませんか」

「お、ようやく言い出したか。いいぜ。何分がいい?」

「5分でけっこうです」

 彼はウサギのような眼を細めている。

「……。重症だな」

「?」

「ああ、ごめんごめん。5分ね。はい、タイマー開始」

 スマホを掲げて見せたのに頷く。

「どうして私を殺そうとしているんですか? 私を殺した場合、先生に撃ち殺される可能性があるとは考えないんですか? ……私よりヒウナさんを優先するかもしれないとは思いますが」

「いや、あってるよ。キミを殺したらリナリアに殺される」

「?」

「間違いなく俺はいま、生きるか死ぬかの綱渡りをしてる。それが楽しくてたまらない」

 彼の感情には一切の揺れがなく、初めて見た時から全く変わらない笑顔を浮かべている。

 普段だったら、怖いと思えたのかもしれない。

「……楽しいこと以外のメリットがないと思います」

「あるさ。これはアリスお姉ちゃんがそうしろって言ったことだ。従わないなんてありえない」

 彼も、リーネア先生と同じように独自の天秤を持った人。私の訴えは届かない。

 感情任せでは意味がないのだ。

「……」

 どうしてヒウナさんとアリス先生がそうしようとしたのか、また、リーネア先生がそれを許したのか、考えなければならない。

「残り2分。……ずっとこうしてるのもなんだしな。5時になったら答え合わせだ」

 つまらなさそうな顔をして背を向ける。私は距離を稼ぐ。

 腕時計を確認すると、5時まではあと40分。逃げ切れる。

 逃げ切る?

 なぜ、理不尽に攻撃を仕掛ける殺人鬼におびえなければならない。

 私が何かしたのか――

「っ」

 なんだろう、今のは。

 私の中身が二つに分かたれたような、奇妙極まりない思考と感覚があった。

 ふらつく私の耳に電子音が鳴り響く。

「ちょっと早歩きするよ?」

「――――」

 足音のテンポが倍になる。

 振り向いて、ナイフの一閃を警棒で受け止めた。

 ナイフを絡めとろうとしたが、私には反応はあっても技術が足りない。鍔迫り合いに持ち込むには相手の刃が短すぎる……!

「下」

 切り上げ。体を後ずさらせて避ける。

「右」

 切り払い。警棒で受ける。

「左」

 返ってきたナイフ。手を返して警棒。

「上」

 袈裟切り。警棒。

「…………」

 私はただ眺めて、どう動いたらいいかを考えているだけ。

 なぜできるのかなどという話ではなく、見えていて対応できる範囲だから、出来てしまっている。

 ヒウナさんはかなりの手加減をしているのだとわかった。

「……」

 いつからできたのかな、この技術。

 そう思えばずっと昔からだったかもしれない。

 昔、叔父を殴り倒そうとした時から――

「っ……!」

 違和感が気持ち悪くて視界がぶれた瞬間に足の浮く感覚がした。

 ヒウナさんの笑顔が視界いっぱいに映る。足払い。

 尻もちをつく私に、ヒウナさんは静かに言う。

「思い出せ。考えろ」

 わかっている。

 でも、わからないことばかりで頭が痛くなる。

 アリス先生の言う通り、パターンは未知に直面し、恐怖するアーカイブ。改めて実感する。

「5時までに、ですか?」

 立ち上がって間合いを取る。警棒は握ったままに。

 彼が薄く笑った。

「ああ、ごめん、それ嘘」

「?」

「ここはオレの縄張りだから自由自在だし、時間の流れを外とずらしてるから、永遠に5時にならない」

「――」

 腕時計の針が止まっている。

 私は背後を振り向く余裕もなく駆け出した。


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