第35話
手に温もりを感じて、ふわりと意識が浮上する。
最近よく見る天井だ……、なんて呑気に思ったがどれだけこの保健室に世話になったら気が済むのだと言われかねないほど常連になってしまった。
我ながら、自分の体の虚弱さに愛想を尽かしそうだ。
一度目を閉じて、再び瞼を持ち上げて天井をぼんやりと見つめる。
夢じゃないなと改めていつものベッドだと半ば諦めの吐息を吐き出してから、右には点滴が刺されていて、そして左側は座ったまま軽く項垂れるように眠るクリス様が居た。
――このままだと、バランスを崩したら危険かもしれない。
彼も忙しくて疲れているだろうに、私の心配ばかりしてくれるのが嬉し恥ずかしい。
でもそんな優しさが、逆に申し訳ない気持ちにもなる。
いや、でも私達はそもそもそういう関係ではないのだ、ここまで甲斐甲斐しく世話をしてもらわなくてもいいはずなのに、好意一つでここまでしてもらえるものなのだろうか。
クリス様のお人好しっぷりに、時折彼は誰かに騙されたりしないか不安になる。
手を握ってくれたままずっと側にいてくれたクリス様を起こすのはしのびないが、ちらりと時計を見ると十五時を回っている。
熱のせいかだるい体に、鞭を打って起こさねばと体を起こす。
そして、改めて自分と彼の繋がれた手を見やると、目を疑った。
「こ……っ!?」
指を絡めて恋人繋ぎになっている手を見て、もしかして意識が朦朧としている間に自分が告白でもしてしまったのだろうかと焦りで重かったからだが一気に勢いで起き上がった。
すると、ピクリと体が反応してそのまま閉じられた瞳は開かれた。
とろんとした目をしているが、ちゃんと覚醒したようで、私が起きている事に気づいて少し驚いた顔になり、目瞠り先程より強く手を握られた。
恋人繋ぎが、さらに固く握られて逃れられず顔に熱が集中する。
「く、クリス様……ち、ちか……!?」
「シャル、熱は? 具合悪くはないか? 君はそうやってすぐに無理をするから心配なんだ。……あぁ、なんであんな所で勉強していたんだ? 君は頭がいいんだからこれ以上無理をしないでくれ頼むから! ……また倒れたら気が気じゃない!」
目を見開いてこちらに前のめりになりながら、怒涛の叱責をぶつけたかと思うと、今度は私が別の意味で目を見開いた。
――口調がゲームの時に戻ってる……!
今まで、まるで作った好青年の振りでもしているのかと言いたい程の甘ったるい喋り方をしていた為、先日「その喋り方をやめてほしい」と頼んだがはぐらかされた。
彼は改善する気がなかったのに、今のは彼の本心なのだろうか、それにしても随分と怒らせてしまったようだと思うと気落ちしてしゅんとしてしまった。
落ち込んだ私を見て、慌てて握った手を緩めたがそれでも離してくれない。
「あ、いや、あー……ごめん――つい勢いで叱ってしまったよ。君の気持ちも考えないで僕は自分の事ばかりだね」
――あぁ、戻ってしまった。
反省するのはこちらの方だと言いたかったが、先程の素のクリス様があまりにも素敵過ぎて元に戻った落胆の方が大きかった。
私が何も返事をしないのを悪いように捉えたのか、とうとう握った手を離した。
クリス様の温もりがなくなり、急に寂しくなった。
風邪を引くと、人恋しくなるとはよく言ったものだ。
「クリス様……あの――」
「すまない、強く言い過ぎたね」
「いえ、私が無鉄砲なんです。反省します」
反省はするが、今年度を越えられなければ私がここまでやった意味が無くなる。
出来るだけ、原作通りから外れた事をしなければならない。
すべてのパターンを、裏切り続けなければならない。
今は、クルエラがケヴィンと恋仲になってもらう為にわざわざ発足させた実行委員会をつつがなく終わらせなければならない――はずだったのだが、それも達成されてしまった。
残りは、二年生を無事に脱却しなければならない。
クリス様の心配を無下にしたくないが、こればかりは怒られても続けなければならない。
「すみません。でも、私やらなければいけない事があるので……」
「……それは、クルエラの事があるから?」
「……えっ?」
――なんで、クリス様がクルエラの事情を知っているの?
頭が急にパニックになる。
スティはクリス様は逆行もしていないと言っていた。
彼はどこでそれを知ったのだろう……? 疑問が、頭の中でぐるぐると回る。
ベッドに手をついて私に改めて近寄ると、真面目な顔をしてこちらをジッと見つめてくるクリス様を見つめ返す。
「クリス様は……、ご存知なのですか」
「君が前世の記憶を持っている事? それとも、クルエラ達が何度もこの一年を過ごしている事?」
この話題は、クルエラの断罪の日に屋上で話した内容だ。
彼は、あの後に私の後を付いて来たのだろう。
そうじゃないと……この話の詰め方はしない。
不気味に思わないのだろうか、逆行もしていないクリス様が私の事情どころか逆行をして何度も一年を繰り返している人達を見てどう考えているのだろう。
「クリス様……」
「ん?」
呼ぶと、喉で返事するその声の低さに胸がきゅんとする。
私はこれに弱い、知っている。
――しかし、ときめいている場合ではない、しっかりしろ私!
きちんと話をしなければと、起き上がった状態で居住まいを正そうとすると、クリス様が背中に手を回して支えてくれる。
背に当たる彼の手は、じんわりと温かくて落ち着く。
「……ありがとうございます」
「構わないよ。……それで、話を続けていいのかな」
「はい、クリス様は……その……、気味が悪いと思わないのですか? 私はもうシャルティエではないかも知れないんですよ?」
「シャルは、僕達の事を忘れているわけではないし、グラムから聞いた話では昔話もできたそうじゃないか。シャルの雰囲気は変わっても、君は君だよ。、僕は、今のシャルの方が――」
そのまま何かを言いかけたが、すぐに口を噤んだ。
きっと、『好き』と言いかけたのだろう。なんとなくだが。
変な空気になってしまい、このタイミングでどうしても気になった事があってそれを聞くことにした。
「クリス様、最近の私の記憶が曖昧で、ここ最近で私の雰囲気が変わる前ってどんな感じでした?」
「……先日再開する前は、僕の事を無視していたよ。小さい頃に疎遠になってから、急に僕を避けるようになったし。それも覚えていないんだね」
少し苦しげに微笑む姿が痛々しい。
覚えのない事に、困惑しつつ覚えていないと頷いた。
もしかして、私の知らないシャルティエがまだ眠ったままなのかもしれない。
領地に戻ったら思い出せるだろうか。
それだけで、夏期休暇の帰省に少しの期待が生まれた。
「――すみません。あまり覚えていないので、夏期休暇中に思い出せそうだったら手紙を出します」
「……そう、だね。待っているよ」
「それと、クルエラの件ですが……、おそらく繰り返している原因は彼女なんです……」
この世界がゲームと言う事は伏せて、私の前世で似たような事例があったのだと嘘をつき、今はそのクルエラの行動パターンを覆すように指示して予定外の人間と人とお付き合いするように頼み、今は学園長と接点を作るために実行委員会を作った事をきちんと説明した。
そして、それが実って二人は今いい雰囲気の関係となったとだけ触れた。
事実は間違えていない為、これで納得してもらえない場合はなんて言えばいいか考える。
『ノー』と言われた時のための事を考えていると、思いの外想像を超えて「わかった」と返ってきた。
それは、あまりにあっさりとしていて唖然とする。
「……え? いいんですか?」
「そうじゃないと、また一年をスティ達が過ごす事になるならシャルに協力しよう。グラムも知っているなら、僕も仲間に入れてもらおう」
「でも伯爵の仕事が……」
「そんなの、適当にやっておけばいいから」
――いやいや、貴族として色々とだめでしょ!
突っ込みを入れる勇気を持ち合わせていない私は、肺にある酸素をすべて吐き出すように深い息を吐いた。
もちろん安堵の意味だ。
「シャル?」
「私クリス様にこの話をしてm嫌われたり避けられたりしたらどうしようかと……」
「あはは、心配性だね。まぁ、君に避けられてたんだけど」
「うっ……」
覚えのない事とは言え、最低な事をした行為については返す言葉が見つからない。
「あと、さっき心配して怒ってくれたの……、すごく嬉しかったんです。いつも優しく話しかけてくれるから、あんなにすごい剣幕で言われたのもきっと初めてですよね……?」
それとなく、あんな感じで話をして欲しいと示したが通じただろうか。
先程、怒鳴ってしまったのがまだ本人の中でバツが悪いのか、何とも言えない表情になった。
「……僕も怖がりなんだよ。君に嫌われたくなくて、良い人の振りをしているんだ」
――それって、クリス様は実は悪い人って公言しているのでは?
変な勘ぐりをしてしまい、頭を振って外に追いやると、そんな些細な疑問は無くなった。
きっと、出生の事を気にしているのだろう。
あれで思い悩んでクルエラといい感じになるシーンだが、先日それをうやむやにしたせいでまたリベンジのごとく、再度それらしいタイミングが訪れたというのだろうか。
すると、前のめりになっていたクリス様はとうとうベッドに腰を掛けて私の方を熱に浮かされたような眼差しで見つめる。
そして、そっと頬に触れられた。
そこだけとても温かくなる。
彼は、何か試すような瞳をしていて目を逸らさずにまっすぐ見つめ返す。
「……前にも聞いたけど、本当に僕がシュトアール家の人間じゃなくても――」
「――クリス様はシュトアール伯爵家の嫡男ですよ」
それ以上言うなと言わんばかりに、食い気味にはっきりというと、また気休めの言葉が来ると思っていたのか、急に瞳が動揺で揺れた。
彼は、再び私にそれを問うくらいには思い悩んで、そして私の事を想ってくれているのだろう。
そろそろ、私も逃げずにそれに応えたい。
「シャル……?」
「クリストファー・シュトアール様は、シュトアール伯爵家の血の繋がったれっきとしたエストアールのお兄様ですよ」
頬に触れた手が、微かに震えている。
――私はクリス様の出生を疑わない。疑いなんてできない。
まっすぐ、信じて欲しくて見つめ続けると、向こうが視線を逸らした。
それが悔しくて点滴が刺されていない方の手で、頬に触れた手に重ねる。
びくりと跳ねたが、引っ込める気はしなかった。
「もしクリス様が血の繋がっていない方だとしても、ここまでりっぱに育って、伯爵としてシュトアールを支えている人は間違いなく貴方です。もっと、自分を信じてください」
「っ……シャル」
「もし、貴方が自分を信じられないなら、私はクリストファー様をずっと信じます。だから貴方を信じている私を、信じて貰えませんか?」
懇願するように、でも優しく諭すように微笑みかけて伝える。
自分のこんな拙い言葉で、ちゃんと伝わっただろうかと不安になる。
彼の逸らしたままの目がまだ彷徨っている。
考えが纏まらないのだろうか。
それとも、こんな事をいう私を嫌いになってしまっただろうか、謝るなら今のうちだと自分に言い聞かせる。
――でも、後悔がないから口に出せない。
どれくらい時間が経過しただろう。
まだ夏なのに、外が微かに暗くなっていた。
時計を見たいが、今は目を逸らすわけには行かない。
持久戦だと腹をくくった直後に、決意したようにこちらに視線を戻した。
「シャル、やっぱり君が――」
「待ってください」
「何故……っ!」
ここで私に告白したとして、長いあいだ無視されて避けられている過去があるから、私はこんな状態で彼の気持ちを素直に受け取るわけには行かなかった。
それを、〝受け入れたくないから〟と受け取ったのか、少し怒りの感情を込めて何故だと問われた。
しかし、弁解するように咄嗟に「違うんです」と言うと、頬に置いた手が引き抜かれて両肩を掴まれた。
「クリス様、もしこの一年……上手くいかなかったら時間が戻ってしまうんですよ?」
「……そうだね」
「クリス様は逆行していません」
「あぁ……」
「もし、もう一度やり直す事になったら、クリス様は記憶が戻ってしまうかもしれません……。そうなったら私は耐えられません」
「……っ」
はっきりとした声でそう告げると、悔しげに目を伏せた。
そんな彼に、さらに言葉を募った。
「それに、何より自分が許せないんです……」
「自分が……?」
復唱するように弱々しい声で返って来た。
それに頷いてみせる。
「私は、貴方を避け続けたという理由が分かりません。それをちゃんと知ってから、貴方の気持ちを受け取りたいんです」
自分の考えていた事を包み隠さず言ってしまったと、後悔に視界が涙で歪む。
言うべきではなかった事まで言ったかもしれない。
彼を傷つけてしまったかもしれないと、急に不安が過ぎる。
もっとクリス様の顔が見たいのに、涙で見えない。
拭いたくても、今は自分の誠意を伝えたくて身動きひとつ取りたくない。
しかし、瞬きで目を閉じると、ぽろっと涙が落ちた。
そこで、視界が広がりまた綺麗な顔が拝めた。
――あぁ、好きだな……。
しかし、その顔は諦めたような、ホッとしたようなの表情だ。
「――じゃあ、シャルも僕と同じ気持ちなんだね」
「……はい」
それには嘘をつきたくなくて頷くと、強く抱きしめられた。
一応病人なんだが、とかそんな事どうでもよくなるほどにその抱擁は優しくて、気持ちが通じ合った感動と、この一年を上手く行かせなければならない使命感が強くなった。
クリス様の腕の中で、私は目を閉じてその温もりを受け入れた。
「でも、告白は私が記憶が戻ったらにしてくださいね」
「はは、それまではお預けだな」
「……あ、また言葉遣いが戻りましたね」
「あぁ、気を抜くとついね。グラムと二人の時はいつもこうだよ」
「その方が私は好きです」
気軽に言ったつもりだったが、自分の口から出た言葉を思い出して一気に顔が熱くなる。
とうとう私が顔をそらしてしまうと、頬に口付けをされてまた更に熱くなり「スキンシップだよ」とだけ言われてこれは恋人としてやったわけじゃないと言い訳がましい事を言われた。
また熱が上がってしまったかもしれないと、上半身をぱたりと倒すと面白そうに笑うクリス様に、保健医に教わっていたのか手際よく点滴の針抜き取り、ここに連れてこられた時のように抱き上げられた。
「……クリス様?」
「寮まで連れて行くよ。門限を過ぎてしまったから」
抱き上げられたまま、ちらりと時計を見ると門限の十八時を回っていた。
フォーベル寮長は優しい婦人だが、時間にも厳しいし男女関係にもとても厳しいのだ。
ひと目で健全かどうかを見分ける力があるのだという。
とんでもない婦人だ。
本当にどこからこんなに腕力があるのかわからないが、軽々と抱き上げられてその足で寮へ連れて行ってもらった。
「シャル、屋上にいた事は覚えてる?」
「はい……一応は」
「じゃあ、さっきは朦朧としてただけか」
クスクスと面白そうに笑うクリス様に、私は首をかしげると、どうやら私は一度目を覚まして甘えてきたのだという。
それを聞かされた私は、恥ずかしさのあまりに彼にしがみついて顔を隠して弱々しい声で「忘れてください」とお願いしたが、笑いながら拒否されたのだった。
寮の入口でスティが私の帰りを待っていたのか、こちらに気付いて涙を浮かべて駆け寄ってくる。
「シャル! どうして帰っていないのよぉ……! 私ったら驚いて、相談したクルエラと寮内探し回ってしまったのよ!」
「ご、ごめんなさい……」
本当に悪い事をしてしまったと眉を下げると、クリス様が弁明してくれる。
「熱が高くて、今まで点滴受けて保健室で休んでいたんだよ」
「そ……そうなのね。どこかで倒れていなくてよかったわ……」
――多分限界超えてたけどね……なんて言ったら今度こそ本気で怒られるからやめよう……。
クリス様はスティがやりたい事を察したのか、身をかがめて話しやすいように高さを下げて、彼女は存在を確かめるように私の頬に頬擦りをする。
それだけでほっとして、涙を流す幼馴染にもう一度「ごめんね」と謝ると「罰として元気になったらお菓子焼いて」と言われてしまった。
玄関口でそんなやり取りをしていると、フォーベル寮長がこちらに小走りでやってきて、私が熱を出している事を聞いていたからか私の額に手を当てる。
水を触っていたのだろうか、冷たくてとても気持ちがいい。
「まだ熱が高いわね。あとは、こちらで預かりますよ」
「部屋まで……は、流石に時間が時間ですからね。諦めます」
「……あら、でも運んでもらえるなら大助かりです! 今、腰を痛めていてそうしてくれると嬉しいのですけど……?」
本当に腰が痛そうには見えないフォーベル寮長に、私達は苦笑した。
なんだかんだけろりと許可を出すフォーベル寮長の軽さと、甲斐甲斐しく私の面倒を見たがるクリス様に甘んじて、部屋まで運んでいただいた。
2019/08/18 校正+加筆
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