第29話

 


 ポケットからハンカチを取り出し、ある程度の水滴を取ってから個室を出ると、同じタイミングでお手洗いに入って来た女子生徒が私の姿を見るなり口元を手で覆って驚いていた。そりゃそうだ。

 どこの誰が、トイレで好き好んで水浴びをするんだと言いたい。

 まだ被ったのが水道水だったから良かったものの、これが汚物だったら流石の私も仕返しを考えようと思ったが、まだこれが水で良かった。

 それに今は七月、幸にも暑くてすぐに風邪を引く心配もない。


「引っ付いて気持ちわるいな……」


 しかし、この格好で戻るわけにも行かないとその時は思ったが、残念な事に着替えは全て教室だと思い出して観念する。

 鏡である程度は髪を整えてから、すぐそこで驚いたまま動かない女子生徒を見てニコリと微笑みかけて「これは内緒ね」と言うと、一気に顔を赤くしてこくこくと頷いたのを確認してお手洗いを出た。





 教室までの道すがらも、こんな格好をした生徒が歩いているのが異様だから好奇の視線の中歩くのはつらい物があったが、もっと凄かったのは教室に入ってから私の事を待っていたスティとクルエラの驚いた顔だった。


「――ただいま」

「ちょっと……シャル、なにそれ……!」

「んー、水浴び……?」


 二人とも目をぎょっとさせながら、私の姿を見上げて絶句する二人に、こてんと首を傾げて誤魔化そうとしたが「可愛くしても見逃さないから」と怒られてしまった。大事にしたくない作戦は失敗である。

 シャルティエの顔は可愛いから、『可愛い』という賞賛に関して否定しないが、自分に言われているのかと思うと気恥ずかしくて『そんな事はないよ』と言いたくなる。

 女子特有の凡庸なセリフのため、絶対言わないが。


「誰にそんな事されたの? 顔は見た?」

「分からない、個室に入った時にかけられて無言で逃げられちゃったから」

「酷い事をするわね。それにしても貴女はよく狙われるわね」

「……とりあえず、今日はもう帰ろうかな、着替えがないから」

「じゃあ私も帰るわ。今日はもともと早退するつもりだったの。折角来てくれたのにごめんなさいね、クルエラ」

「そんなの気にしなくて結構ですよエストアール様!」


 何ていう偶然だろうと思ったが、もしや気を遣わせてしまっていると思うと申し訳なかった。

 しかし、ここで断るのは、それこそ失礼かと判断して、クルエラにはクリス様とグラムに早退すると言伝だけ頼み、謝罪ひとつだけして荷物を片手に帰路に着いた。

 スティは本当に早退手続きはしていたようで、私も手続きを済ませると、学園事務の人に「なんでびしょ濡れなんですか……」と問われて、水遊びに興じたと適当に言って帰った。

 このままだと流石に放置すれば風邪ひいてしまうから、早く帰ってお風呂に入りたかった。

 ぺったりとくっついてくるシャツがごわごわとして気持ちが悪く、歩いている間もスティに「誰かに予備の制服を持っていたら借りれば良かったわね」なんて言われた時にはもっと早く言って欲しかったと嘆いた。





 女子寮へ戻ると、早退してきた際は寮長へ挨拶をしなければならず、女子寮と男子寮の管理人も兼ねている。

 寮長の部屋へ入ると、そこには体のふっくらした四十代の貴婦人フォーベル寮長が柔和な笑みでこちらを見ていた。


「ごきげんよう、フォーベル寮長。シャルティエ・フェリチタ。本日は早退してまいりました」

「ごきげんよう、フォーベル寮長。エストアール・シュトアール。早退してまいりました」


 スカートをつまみ上げて挨拶をすると、スティの早退は把握していたようで、私の姿を見るなり先程の柔和な笑みが破顔して驚き慌ててこちらに駆け寄ってくる。


「あらあら水浴びでもしてしまったの? 早くお風呂に入ってしまいなさい。大切なお嬢様が風邪でもひいたら大変だわ」

「ありがとうございます。それでは失礼いたします」


 軽く挨拶を済ませて部屋に戻ると、備え付けのシャワーを浴びながら湯船に湯を貯める。

 貯まった湯船に身を沈めると、中途半端に冷えた体が温まり、お腹が痛くてキリキリする腹部がじんわりとそのぬくもりが浸透する感覚と共に緩和した。次第に体全体が温まるのを感じて心地よくてウトウトしてしまいそうになるのが幸せだ。

 こんな日中に、お風呂に入ってゆっくり温まるなんて、ちょっと特した気分だ。

 この瞬間だけ、水をかけた犯人にちょっとだけ感謝しよう。

 まぁ、大義名分で早退も出来たし、結果オーライということで。


「シャル……? 少しいい?」

「はーい、どうぞ」


 浴室の扉が叩かれて、返事をするとスティが入って来て「これあげるわ」と言って掌サイズの小瓶に入っている乳白色の液体を浴槽に注ぎ込むと、透明のお湯がミルク色に染まっていく。

 そして鼻に通る香りは、蜂蜜とジンジャーの香りだ。


「ありがとう。すごくあったかい……」

「最近頑張り過ぎだから、これで少しの間ゆっくり出来るようにしたわ。ささっと出てきたら承知しないわよ」


 ぷんっと怒った素振りを見せる彼女が余りにも可愛くて、抱きついてやりたい気持ちと葛藤しているうちに「一時間は入ってちょうだいね!」と言い捨ててさっさと出て行ってしまった。

 本当に最高の親友だと思う。

 それだけ彼女に心配して貰っていると分かると、胸も暖かくなる。

 ジンジャーの効果が早速出てきたのか、ポカポカと体の芯から温まるのを感じて、ふぅっとこの安息の時間は何も考えずに楽しんだ。


 ――今後も水をかけられるのは困るから何か対策を考えないとな……。


 小一時間は入ったような気がして、名残惜しい気持ちを我慢して浴室を出る。

 部屋用の軽めのワンピースに着替えて部屋に戻ると、スティはソファに腰掛けていくつかの書類に目を通していた。

 髪をタオルで挟み込みながら水分を取り、後ろからその書類を覗き込むと、何かの報告書のようなものだった。

 よく見ると王家の印も押されていて、それが王家が調べたものだという事が分かる。

 人の書類を覗き込むなんて、ましてや王家からの報告書を覗くなんて不躾以上に重罪になるかもしれないと、慌てて視線を別の方向へ向けると、それを見ていたかのようにスティに笑われてしまった。


「ふふ、バレバレよ」

「ごめんなさい……、それは何か聞いて大丈夫?」

「大丈夫よ。これはカーディナル学園の、親衛隊の個人情報。グランツ様にお願いして調べてもらったの」


 にこりと微笑む彼女の目は、笑っていなかった。

 さらっと、怖い物を所持している宣言をしている彼女の、底知れぬ恨みを垣間見たような気がした。


「本当にさっき届いたのよ。どれだけ育ちの悪い子達がいるのかと思っていたのだけれど、マーニーは子爵令嬢だし、それ以外の生徒は殆ど男爵家だったり、身分がそこまで高くない令嬢ばかりだったわ」

「でも皆、貴族なの……?」

「平民生徒は、自分達の身分を十分に理解しているから貴族生徒とはつるまないようにしていたようね。貴族はお金を出せば罪が軽くなる事もあるし、平民生徒は家族の苦労もあるだろうから、あまり悪さはできないわよね」


 一覧を再び覗き込むと、その一覧の生徒はマーニーの取り巻きや実行委員会に参加希望した人物達で、これは以前に学園長に先日見せて貰った一覧表とほぼ変わらなかった。

 ただ、それを事細かに詳細に書かれているのが、スティの手元に有る報告書だった。

 家の方でも、仄暗い何か悪い事をしていないか調査をしているようだ。

 私には、そんな権力も能力もないから凄い行動力だと思う。王家パワーだ。


「あまり確定していない事は言わない主義だけれど、水をかけたのはこの中の人物じゃないかしら」

「私もそうかなと思った。マーニーが居なくても活動は出来るし……、朝に心配したことが的中したと素直には喜べないね。今回の号外を見て、私を敵扱いしている人は少なからずいると思うし」

「今後しばらくは、一人で行動しないほうがいいわ。私はずっと居られるわけではないけど……。クルエラやお兄様にもお願いしてみるから、絶対一人にならないで。怪我一つでもしたら承知しないわよ」


 真剣に心配してくれる彼女の思いが嬉しくて、ギュッと手を握ってそれを額に当てた。

 私の手がポカポカとして、その熱が彼女にも伝わるのか、力んでいた手が柔らかくなった気がする。


「ありがとう。でも、私負けるわけにはいかないから、この学園祭が終わるまではとくにね」

「でも、来週は試験でその後は夏期休暇よ。夏期休暇の間は領地に帰るの?」

「うん、お父様が鞄の件で話があるそうだから怒られに帰るよ

「危ない目に遭っていると知ったら、学園に戻してもらえないかもしれないわね」

「そうなったら家出をするから匿ってね」

「ふふ、随分とアグレッシブね」


 その後しばらく二人でくすくすと笑った。

 こんなに気の置けない平和な時間は久しぶりだ。

 夏で日差しが強くなったが、私達の部屋は西日からは反対の方面の部屋で、そこまで暑くならないのが良い所だ。

 まだ二日目で、怠い体を休めるためにベッドに入って昼寝をする事にした。

 昨日の遅れた勉強は、明日まとめてやろう、そうしよう。

 そう考えて夢の中へと落ちていった。



2019/08/16 校正+加筆

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