第3章 (1) バスと渡り鳥と犬

 急にカラオケに行きたくなるときがありませんか? 今日がその日だった。

 ぼくではない。

 カラオケに行きたくなったのは、トナ村リミカ先輩だった。


・・・♪・・・


「カラオケに行きたい」と先輩は言った。

 月曜日の放課後で、今日も曇りだった。

 ぼくは手に持っていたドーナツを落としそうになった。

 結局落とさなかったのは、日々の訓練の賜物だ。

 日々(稀に夜な夜な、あるいは毎朝、つまりは早朝、その内多くは日の出前)街を駆け巡り、都市の朝霧を吸い込むぼくには、そういう反射神経が備わっている。こればかりはルベシベ由来のものではない。ハタロウ独自の備わりものだ。

 ともあれ。

 最終的には、ベンチから五メートルほど離れ、地面に寝そべる形で、両手でドーナツをキャッチしたぼくだった。

「か、カラオケってあれですか、あの歌うやつですか」

「その歌うやつだね」

 噂によると、と先輩は小さく付け足す。

 さては耳にしただけで口にしている。門前の小僧かよと思いもする点、かなりぼくは混乱していた。だってそうだろう、トナ村リミカ先輩が歌を唄うシーンなんて、今までぼくは想像したことがなかったのだ。

「先輩、マイクの持ち方知ってるんですか」

「知ってるさ、それくらい」

 ぼくは愕然とした。

 先輩がマイクの持ち方を知っている? 

 認めたくなかった。

 誰だ教えたのは。

「誰に教えてもらったんですか……」

 シュガーレイズドは少しだけしょっぱかった。

「きみってやつは、わたしのことを相当バカにしているようだね」

 フェンスに寄りかかりながら、先輩はため息をつく。

「教えてもらうばかりじゃないんだよ、トナ村リミカはね。ちゃんと調査はしてあるんだ」

「調査……?」

「そうとも。これでも宿題は嫌いな方じゃなくてね。なんでも世の普通の女子高生なら、カラオケに一度は行くものらしいじゃないか。個室に大きなスピーカーと古今東西の楽曲が収められた箱があって、マイクとやらで歌うらしいね。歌うだけじゃなくて、いろんな食べ物も出てくると聞いた」

 ぼくは先輩の言っていることを見失った。

 そこからか。

 自分が思っているより、だいぶ手前の話だった。

 ぼくはシュガーレイズドを再び口に運ぶ。普段通りの甘さだった。

「……何か間違っているかい?」と先輩は聞いてきた。「情報が古かったのかな」

「あの、クラスメイトの方々に聞いたりはしなかったんですか?」

「するわけないじゃないか」

 何を言っているんだ、と言わんばかりだ。

「みんな知ってるということはね、ハタロウくん。それは常識ってやつだ。常識を知らないと思われるのも癪だが、それを疑っているとされるのも嫌だね」

「事実そうなのでは」

「そうとも。わたしは常識というものに疎い。調べたのも図書館だから、典拠が古い可能性もある」

 素直なひとだった。

「そこで、追いつきたいというのが今回の目標。カラオケに一度でも行ってみなよ、これでわたしはまた一つ普通の女子高生に近づくというわけだ」

 胸を張る先輩。

 地面に伏せたままドーナツを食うぼく。

 屋上にひとがいなくてよかった、と本当に思った。


・・・♪・・・


 ぼくはワープのできる人間ではなかったし、先輩は箒に乗らなかった。そもそもタンデム可能な乗り物かと考えてみれば、当然、疑問符が浮かぶ。そして、その疑問符に掴まってカラオケに行くほど、ぼくらの世界はファンタジーに染まってはいないのだった。

 現実的に、バスを待つ。

 普通の高校生のように、バスに乗る。

 そして先輩は地理の話をはじめた。

「カラオケに行くにも必要だろう」

「それほど複雑な街とは思えませんけども」

「確かに、フナヨイほどではない」

「……それ、街の名前ですか?」

「聞いたことがないかい」

「あいにくと」

「まあここから遠いからね。時間と空間の両方の意味で、そこはとても遠いんだ」と先輩は言う。

「実在するんですか?」とぼくは聞かずにいられない。

「するさ。噂によるとね」

 断言するように言う。

 ぼくの感ずる「噂」の語義が、先輩のしっかりとした言い方に脅かされる。

 トナ村先輩、この街の人間ではないんだっけ、と思い出す。

 この街には留学しに来た、と言っていた。

 ぼくにとっては慣れ親しんだこの街も、先輩にとっては外国のようなもの。でもそれは一体、どこまでの話なんだろう。単なるレトリックにとどまらず、たとえば「噂」の意義すらも、根本的に違うまで、先輩の故郷は離れた場所なんだろうか――そもそも「そこ」を果たして、ぼくは「場所」と認識しても良いものだろうか。

 隣に座る――かと言って、半人前の空間を支えるブックスタンドのようなぼくらだったが――先輩の背中が、やけに遠くに見えてしまった。先輩の雰囲気、つまりはぼくの勝手な憧れで、いつもは大きく見える彼女が、今は親指ほどの背丈に見えた。

 不思議のアリス症候群。

 たまに縮尺の混乱するときがある。よくあることだから、あまり気にしたこともない。それに、ちゃんと対処も学んでいるのだ。距離を掴むには、手を伸ばせば良い。

 とはいえ、今この時ばかりはそれが使えなかった。プランB。代わりにぼくは目を瞑る。まやかしの距離を目の奥に押し込めて、開けば、ぼくを見て微笑む先輩がいる。適正な距離感。ぼくの期待を裏切らない場所に、遠すぎず近すぎず、先輩の幼い顔がそこにある。

「安心したまえ、ハタロウくん」

 そう優しく言って微笑む。

「これから向かうのは、地面の続いた場所にあるんだから」

「安心しました」

 そして少し残念だった。箒でしか行けない距離なんだよ、と言われる日をぼくは待つ。


「この学校とわたしの行きたいカラオケを直線で結ぶと、ちょうどその真ん中あたりに、わたしの住んでいる家がある」

 自宅の所在を説明するのに、そんな言い方をされたのは初めてだった。

 それから、バスの中でこの街の地図を広げるひとを見るのも初めてだった。

「バスというのは不思議な乗り物だからね」

 と、箒に乗りがちなひとが言う。

「この箱の中にいると、自分がどこにいるのかわからなくなる。地下鉄や路面電車ほど、ステーションの名前が強くないからね」

「名前が強い?」

「必然性がない、と言ってもいいかな。ダメか。語弊があるね……」

 先輩は少し考えて、窓の外を見た。

 ぼくも見る。

 バスは止まり、アナウンスが流れた。

「西坂四丁目だ。反対側を見なよ」

「あれは……」

「プラネタリウム」

「そうなんですか」

「地図によるとね」

 ひょっとしてこの観光者向けのリーフレット、めちゃくちゃ便利面白いやつなのでは。

「つまりさ、ここはプラネタリウム前でも良いわけだ」

「それはちょっと――」乱暴ではないか、とぼくは思ったが、自信がなかった。「このあたりは西坂って名前なわけですし、それにこのあたりに住んでいる人たちはみんな”西坂四丁目”って言うと思いますよ」

「その通り」

 と先輩は指を鳴らす。上手に鳴るものだ、とぼくは感心する。

「そう、ここは結局”西坂四丁目”。決してプラネタリウム前にはならない。どうしてだと思う?」

「定着しているから……」

「わたしはそう思う。順序が優先されているんだ、象徴的なものよりもね。もちろん、歴史的な経緯もあるに違いない。けどね、わたしはこう考える――ここでは、生活が先にあるんだ。”三丁目の後、五丁目の前”というような」

「ふむ……」

「バスはそう考えると、ひとびとの生活圏に住む存在だ。犬のような存在と言ってもいいかもしれないね。ちゃんと縄張りがあって……独自のルールで動いている。回っている。だから乗ると自分がどこにいるのかわからなくなるのさ」

 妙にウキウキと話す。

「ひょっとして先輩は、バス、好きなんですか?」

「ものを考えるのにちょうど良いからね。わたしとは別の生活があるんだなって思うと、人混みの中にいるようで、安心する。ここには生きているひとがいるんだよ」

 生きているひと。

 それが先輩にとってどれだけの意味を持つのか、ぼくには推察するしかない。思い出すのは先日の廃墟の一画での出来事。過去の人々が見えるという先輩。亡霊などではなく、それはこの街の記憶。ランダムなシーン。

 先輩にはストレスなんだろうか、と思う。思うがぼくは尋ねない。

「地下鉄の方はどうなるんです、先輩のセオリーだと」

「あれも興味深いね。でもバスと違って、ひとびとの生活とは独立している気がする。人々は駅に行くけど、駅は人々に寄らない。渡り鳥の側の存在だと思う」

 イヌに渡り鳥。

 先輩の話を聞いていると、確かに地理の話は必要かもしれないな、と思えてくる。

 ぼくの知っているこの街は、あくまで全体の一部分にすぎない。ルベシベの家と、学校、そしてたまに遊びに行くところ、書店。そういう局所的なパーツが、離れて位置している。そこを行き来するぼくは、先輩のセオリーに基づけば、犬のようなものなのだろうか。

 きっと先輩は違う。

 先輩は渡り鳥の方に所属している。

 バスの嗄れたアナウンスに耳を傾け地図を読むとき、彼女はやっぱり箒の上に乗っているのだ。

 旅に憧れる犬の話が、ずっと昔にあった気がする。主人の待つ故郷に帰るのではなく、誰も待たない未知のどこかに向かう犬の話。あれはどこで見たんだっけ。

 ほどなく先輩は座席から立ち上がる。

「ここで降りよう」

 従うぼくは、やはり犬のようだなと少しおかしくなってしまった。

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