第502話 偽とは違う、改なのか
少し前、といっても二〇一九年にいた頃の話になるけれども、天瀬と家庭を持つ話をしていて、ちょっと気が早いかもしれないが将来生まれてくる子供の名前の話題になった。その際に使える漢字使えない漢字があやふやだったのを痛感し、彼女とのおしゃべりが終わって独りになってから本腰を入れて調べてみた。そのときに得た知識の一つだ。
つまり、先ほど十四歳と極端に若い年齢を口に出してみたのは、二〇〇四から一九九〇を引いた数というわけである。もう一方のご高齢云々というのは逆に、人名に使える漢字に制限がなかった頃のことを想定しての発言だった。さすがに、いつから制限が掛けられるようになったのかまでは覚えていないけれども。
「一九九〇? え、じゃあ」
驚きが露わな吉見先生の声。そしてそこへ不安が加わった。
「“凌介”は偽名? 何のために? もしかして、騙されている? 私だけでなく、伯母も……」
「あ、早合点させたとしたら申し訳ない。偽名とは言い切れないんです。改名したのかもしれません。我々が漠然と思っているほど、改名のハードルは高くはないみたいなんですよね。もちろん、きちんとした理由が必要ですが」
「改名、ですか……。だったら安心していいのかしら」
「親戚の方を通じて、遠回しに尋ねてみてはいかがでしょうか。そうですね、たとえば『勤めている学校で児童の相談にも乗るんだけど、この間、名前が嫌だから変えたいって子が来て、どうすればいいのか困った。生命保険会社では名付けの調査結果をよく公表しているイメージがあるけれども、そういえば田中凌介さんに、名前の変更について詳しいか聞いてみてくれない?』ってな具合に」
「それなら直接会いなさいと言われそうな気もするけれども。とにかく名前は気になりますから、何とかして一度確認してみます」
吉見先生はいくらか安心したように、穏やかな調子で言った。その後は近況報告的なことを短く話しただけで、電話は終わりになった。デートの話はうやむやになった、というよりも、親戚を通じて男性の名前の件を確かめるまでは棚上げといったところだろうか。どのみち、誘われても断る方向に舵を切っていたと思う。
それにしても……吉見先生を必要以上に怖がらせたくない気持ちからあのように言ってはみたものの、それでよかったんだろうか。仮に正式な改名と分かったとしても、懸念が完全に払拭されるものではないのだから。
うがち過ぎかもしれないが、田中凌介という人物もしくは彼に近しい血縁者が過去に何らかの悪事や不祥事で名を報道され、それを隠すために名を変えたというケースだってゼロとは言えまい。無論、前科者でも罪を償った上で社会復帰のチャンスは与えられるべきだろうし、犯罪者と血のつながりがあるというだけで差別してよいなんて馬鹿なことは許されるはずがない。ただ、当人にとって不都合な情報を交際相手に隠し通そうとしているのだとしたら、心理的に嫌な感じはする。世の中には知らない方がいいことがあるとは言うものの、好きな人相手には正直でいて欲しいという考え方もあり――ともかく、続きがあるとしても吉見先生から事後報告を聞いてからだな。それまで私が、この岸先生の身体にいるかどうか分からないけれども。
* *
「本来業務ではないから、今ひとつ、力が入らない」
嘆き気味にそう言うと、木製の机に向かっていた死神ハイネは大きく伸びをした。普段の“業務”のときのように恐怖と不安感を煽る口調は影を潜め、彼にしては生真面目な声になっている。
「愚痴をこぼすのはかまいませんけど、手を止めずにお願いできません?」
ハイネとはす向かいの位置で、同じくデスクワークをこなす神内は、ダイヤグラムのような線を引きながら言った。貴志道郎及び六谷が過去に来て以前と異なる行動を取った結果、他の物事にどのような影響が及んだかを検証するためには、ダイヤグラムめいた図を描くのが基本だった。
ちなみにだが、ハイネに対する神内の言葉遣いは、上司に対するそれではなくなっている。人間との四番勝負に臨む際にゼアトスが指定した上下関係はすでに解消され、今では神内とハイネは同格なのだ。
「疲れた。魂を狩らないと元気が出ないのだ、故に疲れるのも早い」
「休憩を取るのは、少しでも成果を上げてからに」
「成果ねえ……」
尖った顎を節くれ立った指でさすったハイネ。帳面の隅に書いたメモを見つめた。
「何をもって、少しの成果とするのか知らぬが、以前の二〇〇四年と今回の二〇〇四年とで異なっていることは一つ見付けたぞ。それに、因果関係も掴めた」
「ふうん? でもハイネさんは勝ち誇ってまくし立てていない。見付けてからだいぶ時間が経っているみたいですし、たいした発見じゃないんでしょうね」
「まあ、そうだ。それなら聞きたくないと言うか?」
「……念のため、聞いておきましょうか」
ハイネのお手並みを知っておきたいという狙いもあって、応じた神内。するとハイネはそれを免罪符とするかのように、完全に手を止めた。
つづく
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