第363話 間違いの天気予報

 ともかく、自転車が屋外に出しっぱなしというのであれば、屋根のあるところへ移動させなければいけない。私は天瀬に上がっているように言って、場所を代わった。

「先生が行ってくるから、待っていなさい」

 ドアノブを握って回し、押してみるとなるほど、重たい。右肩をドアの表面に添える姿勢を取って、力を込めた。ドアとドア枠の間に隙間ができ、じわりと開く。そこへ風が吹き込んで、今度は逆に持って行かれそうになった。

「おっと」

「先生?」

「大丈夫。天瀬さんはここにいて。外に出れば自転車は見えるんだろ?」

「う、うん。傘は?」

「いらない! が、タオルはいるな」

 思い付いて玄関先にある棚の上から、タオルをひったくるように掴むと、外へ飛び出した。

 雨の滴が身体を打ち付けて、ちょっと痛いくらいだ。それ以上に風の強さに、身体が押される。このアパートの向きがよくないのか。とにかく、心持ち前屈みになりながら進み、建物を出る。天瀬の自転車は子供用で、すぐに分かった。ピンク色が目立つデザインだが、今は雨のせいでくすんで映る。地面は砂利がまかれているとは言え、すでに水が溜まり出しており、土が混じったのか茶色味を帯びている。

 私は小さな自転車のハンドルを掴むと、鍵が施錠されているかどうかも確かめずに、とにかく抱えるようにしてアパートの駐輪場に運び込んだ。それからタオルでサドルやハンドルなどを拭いてやる。サドルは布製に見えるのだが、撥水加工がされているのか、水はほとんど染み込んでいないようだ。

 これでひとまず安心。あとは雨が止むのを待つだけ。どうせこの手の雨は夕立の類だろうから、じきに上がる。

 そう思いながら一旦、部屋に戻る。

 さっきよりも風がさらに強まっているのか、開けたドアを苦労して閉め、念のためロックもした。……教え子を連れ込んだみたいになってるが、この場合は仕方あるまい。

「うん?」

 鼻をひくつかせながら思わず声が出た。コーヒーの香りがぷんと漂っているのだ。当然、天瀬が入れたんだろうけど。

「あ、お帰りなさい」

 キッチンスペースにひょいと顔を出すと、まるで奥さんみたいな台詞で迎えられた。

「自転車、分かったでしょ?」

「うん、すぐに見えた。このアパートの駐輪場に入れておいた。あそこなら屋根があるから」

「先生、ありがとう。あの、これどうぞ。冷たいだろうと思って。インスタントコーヒーがあるのが見えたから」

 マグカップのコーヒーが湯気を立てている。台所を勝手に使うことに慣れている感じがあるなあ。そういえば以前、にゅうめんを作ってくれたことがあったと思い起こす。

 正直なところ、一番に欲しいのは新たなタオルなのだが、ここはお礼を言っておく。

「ありがとう。拭いてからもらうよ」

 前髪からぽつ、ぽつと落ちる水滴を気にしながら洗面所に向かおうとしたら、肘を引かれた。

「待ってよ、岸先生。バスタオルも用意してる」

「お、サンキュー。気が利くな」

 そう思ったのは事実だが、何でタオルを先に出してくれないんだろ?とも疑問に感じた。すると、私の表情から何か読み取ったのか、天瀬が答えた。

「ちょうどやかんのお湯が沸いて、コーヒーが先、タオルが後回しになっちゃった」

 そういう訳か。すまん、不満そうな顔をしてたんだろうな、さっきまでの私は。納得した。

「きっといい奥さんにもなれるな、天瀬さんは」

「そんなこと――。奥さんに“も”?」

 照れ照れしたのは一瞬だけで、私の言い回しに気が付いたようだ。思った以上に聡いなあ、小学生高学年て。

「“も”って何ですか」

 私は受け取ったバスタオルで髪を拭きつつ、返事する。

「そのまんまの意味だ。家庭に入るだけが女性の生きがいじゃないだろってこと」

「あ、そういう……。私も、お嫁さんになるのも素敵なことだと思ってるけど、でも、新聞記者やアナウンサーのような職業にも興味あるし、デザイナーさんにも憧れる」

「おお。夢が多いのは結構なことだ」

 これはちょっと詭弁。夢が一つしかないならないで、「早い内から夢を一つに絞って打ち込むのは悪くない」的なことを言える。個人的には、小さな子供の頃はなるべく広い視野に立って欲しいと思う。

「そういや天瀬さんは、昔の作文だかアンケートだかで、ケーキ屋やお花屋を将来なりたい職業と言ってなかったっけ?」

 私は五月上旬にこの部屋の“家捜し”をした際に見付けた、クラスの子達について記したメモ書きを思い出して言った。

「フラワーショップや洋菓子屋さんも、やってみたい仕事。そこに新しく加わったのが新聞記者、アナウンサー。あと、裁判官も気になる」

「何でまた、そういう堅そうな職業が増えたんだい?」

「……事件に巻き込まれて、守られて、ちょっと考えたの」

「ああ……」

 余計なことを思い出させたかなと懸念が生じる。でも、天瀬は明るい調子で続けた。

「警察官は無理。やっぱり怖いなーって」

 その分、報道する人や裁く人に意識が向いたってことなんだろう。


 つづく

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