第313話 違う呼び方にしてね

「教師だからというんじゃなくて、身に付いている感じだな」

 そんな返事を口走ってから、はたと思い起こす。

 このレストランで食べ始めるときに、自分は「いただきます」をしただろうか? 神内のごっこ遊びに付き合うよりも早く話が聞きたいという思いが勝り、「いただきます」まで気が回らなかったような……うん、していない。

「あー、すまない。格好悪いが、前言撤回する。身に付いていなかった」

「何のことを言ってるの?」

 私はこの食事の始めに「いただきます」をしなかったことをそのまま伝えた。

「なーんだ。それくらい、言い出さなきゃ私だって覚えてなかったのに。先生は正直であれ、てこと?」

「正直な方がいいのは教職者に限らないだろう。それよりも、心に残っていることがあるからっていうのがウェイトを占めてるな」

「いただきますをするしないで、そんなエピソードが?」

「もしかするとあなたも把握してるんじゃないかな。天瀬が柏木先生と教頭先生を悪く思うようになったきっかけ」

「……ああ、あったわね」

 レストランで「いただきます」「ごちそうさま」をしなかった柏木先生達を、天瀬はよくないと思ったし、だからこそ記憶にも残ったのかもしれない。

「何か嫌な予感がわいた」

 ふと、思ったことを口にした。

「『いただきます』をし忘れたのは、悪い兆しの前触れなんじゃないかって」

「ふふっ。動揺してるのはよく分かる。兆しと前触れをそんな使い方したら、重複表現では? 小学校教師としてどうなのかしら」

 確かに。「悪いことが起きる兆し」か「悪いことが起きる前触れ」でいい。ちくしょう、ますます嫌な予感が膨らんでしまった。

「そんな、この世の終わりみたいな顔しないでよ。何だか縁起でもないわ」

 “この世の終わり”だの“縁起でもない”だの、デート相手の女性が言ったのならまだしも、神様の口から出た台詞だと思うと妙な具合に聞こえる。

「そこまで不幸そうな顔をしている?」

「不幸というよりも、落ち込んでいる感じかしら。小さな失敗ぐらいでくよくよするタイプじゃないでしょ、貴志道郎サンは」

「妙なアクセントを付けるな。小さな失敗でも、気になるものはなるの」

「この時代に来てから、小さな失敗なんていくつもしてるでしょうに」

「こんな普通ならありそうにない状況に放り込まれたら、誰だって失敗はする。だけど、天瀬に関わることになるとちょっと意味合いが違う気がするんだよ」

「そう? それなら忘れてるみたいだから思い出させてあげる。天瀬さんに関係することで、いきなりミスってたわよ」

 教え子が“ミスってた”なんて言葉を使っていたら一応注意する。言葉は生き物だ、変わるものだと言うけれども、元の使い方を無闇に“殺して”いいものではない。ちゃんと理解した上で使うように。

「へえ? 何があった?」

「天瀬さんを呼び捨てにしていた。最初の頃に顕著だったわ」

「えっと、そうだったっけ? あんまり覚えてないな……」

 何度か呼び捨てにした記憶はある。ただ、それは天瀬以外の児童に対しても時折呼び捨てにしてしまったはずだから、ミスという認識はさほどない。

「小学生の天瀬さんと初めて会ったときよ。彼女との会話でずっと『天瀬』って呼び捨てにしていたじゃないの」

「……言われてみればそうだったような」

 将来の嫁が目の前に現れたという驚きと感動がない交ぜになって、「さん」付けするどころではなかった。そもそも、二〇一九年七月の時点で私は彼女を名字で呼んでいたという実態もあった。

 付き合い始めてからしばらくの間は、「天瀬さん」と呼んでいた。それがいつの間にか下の名前に「さん」付けするようになり、さらに「さん」が取れて、「美穂」と呼ぶようになっていたのだが、あるときを境に名字で呼んでほしいと言い出した。理由を問うとその場では答えてくれなかったが、少し後になって教えてもらった。結婚したあとは下の名前で呼ばれるようになるだろうから、それまでは名字で呼んで欲しいと。実はその半月ほど前に私の方から、将来一緒にならないか的なことを仄めかした。対する彼女からの意思表示がこれだったというわけである。

「妙なことを思い出した」

「え?」

「いや、こっちの話。それで、呼び捨てにされた小学生の天瀬美穂は私について不審の念を抱いていたのだろうか? あのときは心に余裕がなくて、細かな反応までは見ていないんだ」

「そこまでは知らないけれども、今さら心配するようなことでもないんじゃないの。現に、不審がられていないんだったら」

「その通りなんだが、不審に思われていないってことは、岸先生は普段から天瀬を呼び捨てにしていたのか気になってね。でも、だとしたら『さん』付けしてる今の方が変に思われているはずだし」

「もう、ほんとどうでもいい細かいことをぐちぐちと!」

 辛抱たまらなくなったように神内は声のボリュームを上げた。

「あなたがそうであったように、岸先生だって普段から呼び捨てと『さん』付けを混在させていた。それで済む話でしょうが」


 つづく

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