第300話 “間違えて漏洩してしまったぁ、どうしよう”
「犯罪というか事件的なという意味で、ですよね、それ。いや、ないですよ。平穏無事です」
陣内警部補とよく似た人を見掛けたばかりだが、関係ないだろう。
「あの女子児童の周辺ではどうです? お名前は天瀬美穂さん、でしたか」
「……同じです、何も起きていないと思います。僕の目の届く範囲では」
手のひらに汗を感じてきた。
「そうですか。なら、やはりたちの悪いいたずらなのかな」
「天瀬さん宅には、電話なり何なりで注意喚起したのですか?」
「いえ、していません。今のところ、しないつもりです」
「どうしてです? いい加減、何が起きたのかを教えてください。何が起きたか分からないままでは、どのぐらい警戒すればいいのかすら判断が付かないじゃありませんか」
じりじりする気持ちを抑えるのに、結構努力が必要だ。
「脅かすつもりはないのですが、妙なはがきが警察に届きましてね。書いたのは、あなたを襲撃した例の渡辺とつながりがあると称する者でして」
「えっ。誰なんですか」
天瀬に降り懸かる次なる危機が、いよいよ来たか。武者震いのようなものが起きた。
「具体的には書かれていなかった。文面は、『渡辺は悪くはない、陥れた者に鉄槌を下す』という趣旨でした」
「それってれっきとした犯罪なのでは……」
警察の総意ではないという前置きが気になった。恐らく、組織としては捜査をするつもりがないということなんだろうが、何故だ。
「正確にはそのはがき、警察署に届いた物ではないんです。署の周囲にある溝に落ちていたはがきを、たまたま陣内警部補が見付けて、何の気なしに拾い上げてみたところ、滲んだ青いインクの文字がどうにか読み取れたっていうね。だから、単なるいたずらである可能性が高いと判断されました。警察署まで来ておいて、急に怖くなって投げ捨てて帰ったんだろうと」
「それでも、はがきを書いた主が本気かどうかは、微妙なような」
言いながら、別のことも考えていた。夕刻、すれ違ったのはやっぱり陣内刑事だったという気がしてきた。捜査の対象にはならなかったもののはがきが気になって、直に注意を促しに来てくれたんじゃないかな。
「他の刑事さん、たとえば陣内さんはどのように考えているんでしょう?」
「ああ、それがですね、警部補は休みを取ってまして。家族サービスの約束を相当前からしていたそうで、ある事件が解決して、すぐに。今日、署に来たのは置きっぱなしにしていた着替えを持って帰らなければいけなかったとか。それがはがきの発見につながるのだから、分からないものです。とにかく、陣内警部補に意見を伺う状況にありません」
「そうですか」
所詮は小さな、事件とも呼べぬような事件。三森刑事が個人的にちょっと注意を払ってくれただけらしいと分かり、そのことには感謝するものの、総体的には落胆の方が大きい。かといって、何も起きない内から護衛してくれなんて、聞いてもらえるはずもなく。
尤も、刑事さん達の事情も理解できなくはない。“ある事件が解決して”というのは、例の誘拐事件のことなんだろう。子供がいる親だとしたら刑事でも堪える捜査であったに違いない。ましてや、己が子と遊びに行く約束を交わしていたとなれば、捨てられていたはがき一枚の些末な脅迫を事件化して、また時間を取られるのは御免蒙るとなっても不思議じゃない。無論、陣内警部補の一存で捜査に乗り出すか否かが決まるわけでもないだろうけど。
「とまあ、こんなことがあったというお知らせです。今の段階では我々は公式には動けません。心苦しいのですが、そちらの方で充分に注意してくださいとしか言えない。あの女の子にも岸さんの方から警戒するように……」
これまでに比べると、歯切れのよくない三森刑事。断定調が減っているのはわざとなんだろうか。警察としては責任を負えない、だから曖昧な物言いになっているのだということを、暗に仄めかしているようだ。
「もちろんです」
踏ん切りが付いた。私は力強く請け負った。
「以前と同様、教え子のボディガードもやってみせますよ」
「あ、いや、そういうことを言われるのも困るのですが……。とにかく、何も起こらないことを祈っています。あと、これから話すのは独り言ですので、聞かないでください」
「は?」
唐突に妙なことを言い出したぞ。呆気に取られて何も聞き返せない。三森刑事は続けた。
「渡辺に味方し、無茶な行動に出るとしたら、候補は二人。あやつの歳の離れた弟、渡辺
そこまでをゆっくりしゃべったかと思うと、すーっという音が長く続いた。三森刑事が電話口の向こうで、深呼吸をしたらしい。
と、その気配が消えるや否や、ひときわ芝居がかった口調になって、三森刑事は言った。
「――あっ。電話を切ったつもりが、切れていなかった。失敗、失敗」
つづく
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