第266話 評価間違いではないよ

 たとえば、あの渡辺がいなくなったことで仕事がうまく回らなくなり、収入が大幅に減った人がいるかもしれない。岸先生が実家に戻らなかった結果、その帰路で岸先生に何か手助けしてもらった人が、救われなくなったのかもしれない、六谷が往来でぽろっと漏らした未来のギャグが何らかの形で広まって、本来使うべきお笑い芸人の将来が変わる可能性だってないとは言い切れない。だが、そういった過去の改変を起こさぬようにと、口にチャックをし、他人と関わらずに生きていくなんてできない相談だろう。

 神様を呼び出して、天の意志に聞いてみるかな。いや、さすがに教えてくれるとは思えない。

 それによくよく考えてみると、仮に私が誘拐犯人の名前などを突き止め、刑事さん達に教えたとすると、私も怪しまれやしないか? さっきの三森刑事との会話は、「誘拐事件が起きているんじゃありませんか?」と聞いたのと同じだし、そこへ加えて「こいつが怪しいですよ」って示唆したら、私こそが誘拐の首謀者に思われるかも。

 無論、そうなった場合でもアリバイやら通話記録やらを調べてもらえれば無実であることは証明可能だろうが、疑われて警察に拘束されること自体、避けねばならない。自由が利かない間に天瀬の身に何か降りかかったら、対処不可能だからだ。地雷を好んで踏みに行くような真似はできない。

 発生しているであろう誘拐事件について、私はひとまず頭から追い出した。それからアドレス帳をポケットから引っ張りだし、ぱらぱらとページをめくっていく。

 警察署でもちらと見て感じたが、情報としては名前と電話番号と住所ばかりと言っていい。特段、気にすべき書き込みは見付からない。どうやらこのアドレス帳、天瀬の将来の危機に備える一助とはなり得ないようだ。当てが外れて少々残念に思う。

 だがしばらくすると、追い払ったばかりの誘拐事件が脳裏に戻って来た。

「もしや、誘拐は連続誘拐事件で、天瀬も被害に遭うっていうんじゃないだろうな」

 誰にも聞こえないような低い声で、そう呟いていた。


 いかに懸念が高まり、不安が募ろうとも、日々は過ぎていく。

「岸先生、さよならー」

「宿題、ちょっと増えた」

「登校日って休んでもいいんだよね?」

 小学校は一学期の終業式を迎えた。

 学校のある間は天瀬に目を配ることがある程度できたのに対し、夏休みに入るとそうもいかなくなる。とりあえず、富谷第一小との交流行事が三日後にあるので顔を合わせることにあるが、それまでは目が届かない。いくら天瀬家がご近所さんでも、連日様子を見に行くのは不自然にもほどがある。何もないことを願うばかりだ。

「先生」

 ぽてぽてと階段を降りていき、嘆息が無意識の内に出るなあと思っていると、上から声が掛かった。天瀬の声じゃなかったら、呼び止められたことに気付かなかったかもしれない。

「うん? どうかした?」

 見上げると、階段の手すりから身を乗り出し、髪を揺らしている彼女の姿が目に入る。

「通知表の欄、一箇所抜けてるみたいなんだけど」

「え、本当か?」

「ほんとよ、ほら」

 渡したばかりの通知票を開いて見せられたが、影になって全然読めない。降りてこないところを見ると、教室に友達がいてまだ帰るつもりがないんだろう。

 私は「分かった。今行く」ときびすを返し、階段を駆け上がった。天瀬のいる段より一つ下のステップで立ち止まる。

「あー、先生、廊下は走るなって言ってるのに」

「――天瀬さんを待たせては悪いと思ったからね。友達、教室にいるんじゃないのか」

「そう。言っとくけど男子じゃないよ。交流に参加する他のクラスの女子」

「対策会議でもやってるのか。えらいな」

「対策って言うよりも、向こうの人達と仲よくなるための会議かな。先生が言ってたでしょ」

「そうだった。で、通知表のどこかな」

 この小学校の通知表の評価方式は他と大きく変わることなく、「よくできました」を二重丸、「できました」を丸、「がんばりましょう」を三角で表す三段階評価だ。それぞれ判子を押して記す、つまりデジタル化していない分、抜けることもたまにあるが、よりによって天瀬の分でミスをするなんて。

「ここ」

 彼女が差し示したのは学校生活の項目の一つ、「忘れ物をしない、また整理整とんができていますか」という欄。私は思わず苦笑し、「忘れ物云々のとこを先生が忘れたら格好悪いな」と先手を打った。

「そうだよ。それでどの判子?」

「もちろん二重丸だよ。何だ、心配してたのか」

 鞄から通知表用の判子を取り出し、二重丸の物を確認してから押した。かすれないよう、慎重に。

「それはもう心配したわ。四月、学校が始まったばかりの頃に給食袋を持って来るのを忘れたでしょ。それと集金。給食代と修学旅行代とが危うく、混ざってしまうところだった」

 そんなことがあったのか~。四月の話ならどちらも私は知らない。私が岸先生の身体に入ったのは五月になってからだ。まあ、岸先生も天瀬のそういった失敗を特にメモしていたわけじゃないし、私じゃなくても評価は二重丸になっていたと思うけど。


 つづく

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