第167話 まだ義理の息子とは違うんだし
「その男性の方、最初から美穂に話を持ち掛けるつもりだったのかしら」
問うてくる季子さんの鼻息が若干荒い。憤懣やるかたないとはこのことか。今いる場所はスーパーマーケット。顔見知りが見ているかもしれない。その意識から、怒りの感情を抑え込めているように見えた。
私は相手に落ち着いてもらおうと、なるべく穏やかな口調に努め、続きを一気に話す。
「男性の真意は分かりませんが、忘れ物をして困っていたことは間違いないと思います。それでですね、僕は電話連絡が付いたので、美穂さんのいる店に行って、合流して、男性から話を聞きました。身分に関して、美穂さんに嘘をついていないことの確認が取れたので、名刺を預かってお帰りいただいた次第です」
厳密には、杉野倉が正直に話していることの確認は店内にいる段階では取れなかったが、結果的には同じなのだから、まあ端折るのを勘弁してもらおう。
「それだけですか、岸先生」
冷静な物腰の季子さん。
「はい。これで全てです」
応じたものの、次の返事があるまでしばらく待たされた。お昼のスーパーマーケットの店内とは思えない、奇妙な間のある会話だ。
それでも三十秒ほど経った頃に、季子さんは口を開いた。
「あの子ったら……」
ため息交じりに言ったかと思うと、唇の両端を少しだけ上向きにした。
え? 何だか嬉しそうだぞ。どういうこと?
恐らく目をぱちくりさせていたであろう私の前で、季子さんは口元を空いている方の手で覆った。
「――いけない。つい、笑いがこみ上げてきちゃう」
「あの」
「岸先生。お断りしておきますと、これでも私、怒っているのです」
「は、はあ……」
会話の接ぎ穂が見付けられず、困惑の湿地帯にはまり込みそうだ。しかし、次に季子さんの言った台詞で、踏みとどまることができた。
「怒っているんですが、うれしさの方が上回ってしまって」
「うれしさと言いますと……」
おぼろげだが察しは付いた。けれども、ここは分からないふりをしていよう。
「うちの美穂は、客観的に見てもかわいい、と思っていいんですよね」
口元から手を外してそう言った季子さんは、完全に笑顔になっていた。さっきまで明らかに張り付いていた怒りの感情は、一体どこへ去ったというのだろう。
「……いいと思います」
私の方も戸惑いを隠して、微笑をたたえて肯定しておいた。この分なら、天瀬もお説教の二段重ねにならなくてすみそうだ。
あ、いや、でも、これで季子さんが天瀬美穂にスカウトを受け入れて芸能活動を認める、なんて流れになったら、こちらとしては非常に困る。もしも天瀬が今からもう少し年齢が上がった時点で芸能人になったら、ひいき目なしに、人気を博す可能性は高いと思っている。以前にも想像したように、そうなってしまったら、私(貴志道郎)が彼女と知り合う可能性は現状から急降下し、ゼロに近くなるだろう。そんな状況から天瀬との結婚までこぎ着けるなんて、至難の業というぐらいの表現では全然足りない。ヘラクレス十人分ぐらいの難業であろう。
よっぽど、「男性から預かった名刺はお渡しできませんよ」と先手を打とうかと思ったのだが、実際にはそこまでの権利はないわけで。ルールをなるべく守りたい私としちゃあ、切り出すことはできなかった。
幸い、季子さんは名刺の件に触れることなく、陳列棚の方へ目を向けた。彼女も私も惣菜を選ぶ手つきをしながら、会話は続く。
「岸先生。あの子がどうしても芸能界に入りたいと言い出したら、どうしたらいいと思います?」
「そうですね……美穂さんだからどうこうというのではなく、僕は基本的には反対です。が、お子さんがどうしても言うのであれば、気持ちを尊重したい部分もあります」
「よかった。考え方がおんなじですね」
「そうでしたか」
割と本気でほっとした。あからさまに安堵するのもおかしいので、顔を撫でる動作に紛らわせる。
「その分でしたら、わざわざ言わなくてもいいかしら」
「何でしょう?」
「もしも美穂が私に内緒で、岸先生に芸能事務所の連絡先を教えてほしいと言ってきても、ワンクッション置いてくださいますよね」
「それはもちろん。必ず、保護者の方にお知らせします」
願ったり叶ったり。これで天瀬の芸能界入りはある程度ブロックできるはず。天瀬が大きくなって、自力で杉野倉とコンタクトを取ろうとしたり、応募を始めたら止めようがないけど、見た限り、そこまでの憧れはまだ持っていないようだし。
「そういえば、先生、お疲れでしょう? 夕飯のおかず、何か作って持って行きましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけ受け取っておきます。あっ、以前いただいた物は、どれも美味しかったです」
ただでさえ天瀬家との距離が物理的にも心理的にも近いなと感じているのに、病気の見舞い等ならまだしも、修学旅行で疲れたぐらいのことで料理のお裾分けにあずかっていては、周りからどんな目で見られるか分かったものじゃない。ましてや、季子さんの旦那さん――私にとっては将来の義父――は現在も単身赴任のはず。ありがたい話ではあるんだけど、ここは遠慮せねば。
つづく
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