第119話 TKO負けは違う、KO負けだ
いやもちろん、松花堂弁当という言葉は何度も耳にしたことがあったけれども、松花堂というお弁当屋さんの一大チェーンがあって、そこの代表的なお弁当の種類かなー、などと漠然と考えていた。大人になっても知らなかったことを、十五年前に来て知ったというのはどこかパラドキシカルで愉快だけど、この事態はちょっと恥ずかしい。
「うろ覚えですけど、僧侶の松花堂という方がいて、その人の京都の八幡に作った庵か何かが『松花堂』だったかな」
「へえ」
吉見先生が解説してくれたおかげで、私の恥はそれ以上は広がらずに済んだ。
「それだと、まだお弁当とつながっていないな」
連城先生が言った。失礼ながら外見からは想像しがたいが、由来に本当に興味があるようだ。
「『松花堂』で催された茶会で、提供された懐石弁当が松花堂弁当のもとになったそうです」
「ほお、なるほど、つながった」
「茶会と言うからには、その場合の“かいせき”は懐に石の方の懐石ね」
湯村先生が吉見先生に負けじと?蘊蓄を垂れる。
「はい。会う席の会席料理は比較的豪華な料理という意味合いが強いらしいですね」
「お茶の席の料理、懐石料理として始まった松花堂弁当が、今ではどちらかというと豪華な物、つまり会う席の方の会席料理に近いというのは、同音異義語のせいなのかしら」
「おもてなしの心が、料理を段々と豪華な物にしていったとも考えられますよ」
女性同士で盛り上がっているのか張り合っているのか、やり取りが続く。そこへ伊知川校長が口を挟んだ。
「どちらもあり得るでいいんじゃないですかな。何にせよ、おかげで我々はうまい弁当にありつける。感謝せねば」
そうして胡麻豆腐を口に運ぶ。その一口が最後だったらしく、ごちそうさまと手を合わせた。
「早いですな、校長。身体によくないと言いますよ」
「口の中では高速で噛んでいるから大丈夫――冗談です」
集めた視線のほとんどが真剣だったのを感じて、冗談だと付け足したらしい。煮ても焼いても食えない校長の風格というか人柄というか、ともかく頼もしく映る。
食事を進めながら今日このあとの行程の再確認、変更の有無、児童や教師に体調不良の者は出ていないか等をチェックし、問題の起きていないことが確認される。食べ終わったところで、僕らクラス担任の者は、子供らの様子を見に行く。
教師と児童のスペースはそれぞれの間を簡易なパーティションで区切っただけなので、声や気配はツーツーで伝わっていた。食事中、児童らの側から「でけー」とか「こえー」とか「おおっ」というざわめきが漏れ聞こえていたので、気になってはいたのだ。
「――なんだ、テレビがついていたのか」
子供達の反応の源が分かって、得心する。大型のテレビが四台、壁に掛かっている。みんながみんなテレビに意識を向けているわけではなく、一部の男子が注目しているようだ。
チャンネルは昼のバラエティ番組で、著名な司会者とともにゲストとして大きな外国人が映っている。大相撲の横綱まで張り、後に格闘技などに転じた大物である。話の内容から、昨年末に格闘技デビューを果たしたことが分かる。そうか、あの試合は二〇〇三年の大晦日だったっけ。紅白歌合戦を一瞬上回ったとかで話題になったなあ。
懐かしさを持ってテレビ画面を眺めていると、少し離れたテーブルにいるうちのクラスの男子達から、「横綱だから強いって、言うじゃなーい? でもあんた、キックでは三分もたないですから! 残念! 塩を投げずにタオル投げられた、斬りっ」とか「負けたのは、グローブを着けた手なら土俵についてもいいと思っていたから。間違いない」等と芸人のギャグを真似て好き勝手に言っているのが聞こえた。これまた懐かしい。自分も小学生のとき、「残念!」「間違いない」を意味なく使った覚えがある。流行ったのはこの頃だったんだな。ちなみにだけど、私のおぼろげな記憶(何しろ感覚的に十五年前なんだから仕方がない)では年末の試合はタオル投入によるTKOじゃなく、正式なKO決着だった気がするのだが。
テレビの邪魔にならないよう、一応気を遣いつつみんなの様子を見て回ると、何人かはすでに席から離れていると分かる。ちょうど近くにいた長谷井に聞いてみたところ、トイレか隣の売店スペースに行っているという。別に禁じてはいないし、違うフロアに移動しなければいいだろう。
ついでと思って、話の種にさっきの芸人のギャグについて、振ってみた。
「『残念!』とか『間違いない』っていうギャグ、やっぱり流行っているのかな」
「多分。面白いけど、僕は自分では使わないから」
「あ、先生。それなら六谷が凄いんだ」
長谷井と同じ班の
「ほう。六谷君は芸人のものまねが隠し芸だったりするのかな?」
つづく
*遅ればせながら、曙太郎氏のご冥福をお祈りします。2024/04/13
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