第71話 違和感その2

 腕組みを――気分的に腕組みをして、これまた気分的に小首を傾げて黙考する。

 と、不意に辺りが暗い空間になった。

 これは……白無垢に微かに滲む、でも決して消えない黒い染みのような恐怖と絶望の記憶とともに、思い出す。大型のトラックか何かに跳ねられた直後、あのときと同じだ。

 私は確信を持って待った。何らかのメッセージがあるに違いない。

 それはほとんど間を置かずに、声となって聞こえて来た。


「安心して。あの肉体にあなたが戻れば、元通りになれるから」


 誂えたかのように、心の疑問に答えてくれる声。だけど……すんなり戻っていいのかどうか、訝しくも思った。

 戻れば元通りというのであれば、最初からあの身体の中に戻してくれればいい。天の意志だか神だか運命だか存じ上げないが、そうされなかったってことは、何かあるのではないか。

 と、新たに浮かんだ心の疑問にも、声は応えた。


「どうせあなたはまだ帰れないから」


 何だって? というか言葉遣いがちょっと馴れ馴れしくなってないか。


「天瀬美穂を助けて」


 え?

 ちょ、ちょい待ち。どういう意味だ?


 声が明らかに小さくなっていくのが分かり、こっちは大いに焦った。上下の判然としない空間の中、平泳ぎをするときみたく手足を動かし、もがく。

 だが、声は最早同じフレーズを繰り返すばかりで、どんどん音量を下げていく。


「天瀬美穂を助けて 美穂を助けて 助けて ……」


 ちくしょう、時間切れかよ!

 助けるに決まってる! だからもっと質問に答えろ!



 布団の中で目が覚めた。

 自分のわめき声を聞いて目覚めた気がしないでもない。

 掛け布団は乱れ、身体の半分近くは布団からはみ出ていた。

「……」

 死人がむくりと起き上がった、とでも形容したくなる動作で上半身を起こす。

 時計を見ると、三時三十分だった。窓の外はさすがにまだ闇だ。

 頭が痛いような気がして後頭部に手を当てた。だが、気のせいだったか、痛みはない。興奮して鼓動が速まり、血液の流れを頭痛と勘違いしたのかもしれない。

 今いるここは……アパートの一室。岸先生の部屋で間違いない。元の時代に戻れていなかった。

 いや。

 さっきのは夢なんかじゃなく、戻れていたのか? 何て言うか入院患者が許可をもらって一時外泊した、みたいな。

 問題はあの声だ。「天瀬美穂を助けて」ってのが夢じゃなく、以前に経験したのと同じ声であるのなら、この時代で私がやるべきこと、できることがまだあるという意味なんだろう。

 そういうことならやってやる。わざわざ“一時外泊”させてくれなくたって、答は決まってるんだよ。

 それよりも、もっと疑問に答えてくれないものなのか?

 私にとって天瀬の運命ことと自分の運命ことが最も重要なのは言うまでもないが、他にも知りたいことがある。まず岸先生はどうなっているのか。私がこの肉体を去っても大丈夫なのか?

 それから、この時代で私は後先考えずに振る舞ってもいいのか。未来を知る者が過去をいじることで、未来に大きな影響を及ぼしはしないのか。自分のようなちっぽけな人間が動いたくらいでは、さざ波を起こしてもじきに大きな渦に飲み込まれて、関係なくなるのだろうか?

 ――答えてくれる気配はなし。ま、期待しちゃいなかったけれども。

 しかと覚えてるわけじゃないが、十五年後に受け持ったクラスの子の一部も読んでいた、ライトノベルにあったな。あれみたいに、神様に馴れ馴れしく、しつこく呼び掛ければ答えてくれるようにならないのかね。


 つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る