第63話 嫁とは違うもう一人

「かもしれません」

 表向きはそう答えたものの、内心では違うと感じていた。知り合いなら、岸先生データに引っ掛かってくるに違いない。日常的に接する相手であれば、『人の家にやって来ておいて私を突き飛ばして逃げた奴』というデータが書き加えられて、絶対に分かるはずだ。そんな人物に出くわさないのは、顔を合わす機会のあまりない相手なのか。だとしたって、遅かれ早かれ露見することだ。

 ああ、普段の暮らしを充実させたいと願ったばかりなのに、脇田さんの姿を目の当たりにしたら、つい事件について考えてしまった。

「言おうと思っていたのに、こんな事件が起きたあとじゃ、余計に言いにくくなったかもしれないねえ」

 脇田のおばさんは、自分の仮説に自信があるようだった。


 晩ご飯のおかずには事欠かないくらいに色々もらった。ある意味、日常生活の充実と言える。尤も、これは入院バブルであるから、じきに消えると分かっているが。

 食べて、俯せになってテレビを見るともなく見ていると、ニュースが始まった。リモコンに手が伸びた。事件について知りたい気持ちと、もういらないという気持ちが相半ばする。いや、冷静に考えて、全国ニュースで続報が出るような大事件じゃない。ローカル枠ですら怪しいだろう。

「……」

 今日は大きなニュースがなかったのか、政治経済ネタが終わると交通事故が一件、それから世界規模の美人コンテストについてのトピックスが来た。

 何だかんだ言われつつも、十五年後も続いているのだ。この当時は批判の声もまだ小さかったろう。特に議論の的になることが多い水着審査の是非だが、これも当たり前のように流れた。

「……」

 見ている内に、少々興奮してきた。二十代の健全な男、しかも結婚を控えていた男が、この一週間、そっち方面では何もなしに過ごしてきたのだ。ヌード写真集は部屋にあったけど、あれは岸先生の好みだし、そもそもこの奇妙な事態に慣れるのに手一杯で、性的にどうこうってどころじゃなかったというのもある。

 だけど、禁欲っぽい暮らしもどうやら限界が近付いてきているらしい。ちょっと発散しておきたい気持ちが、むくむくと起きる。元いた時代からも含めると、多分、二週間近くご無沙汰しているのだ。

 このアパートの防音はどの程度なんだろう、なんてことが頭をよぎる。いや、動画がある訳でなし、心配するところが違う。この怪我でできるかどうかが一番危惧すべき点であろう。

 私は俯せの姿勢から起き上がると、軽く肩を回してみた。突っ張る感覚はある氏、力の加減と方向によっては痛みも走る。が、厳しい問題はない。次に嫁になる女性の姿を思い浮かべてみた。

 ……。

 脳裏に鮮明に浮かんだ。

 これならどうとでもなると判断した矢先、ぽん、とまさしく音を立てたかのように、別の顔かたちが浮かんだ。

 あれ? これはまずい。

 天瀬美穂が二人。私と同じ年齢の天瀬と、小学生の天瀬。前者はなまめかしい表情をして、後者は屈託のない笑みを浮かべている。

「……無理かもしれない」

 本音が独り言になって出た。


 つづく

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