第20話 違わないものもある

 しまったと思ったときにはもう遅い。恐らく、岸先生のキャラクターではまずなさそうなことを、私は言ったんだろう。

「先生、大丈夫? 病み上がりで張り切りすぎると、ぶり返すよ」

 天瀬の声がした。思わず頬が緩む。急いで俯いて、真面目な表情に立て直してから面を起こした。

「大丈夫、ちょっと力が入っただけ。えー、時間を無駄にしてられないので、授業に入るぞ。号令を」

 そう言うと、廊下側から一列目、前から五番目の席の男子が声を張った。

 えっと、長谷井絢太はせいけんた、この子が委員長なんだな。優男風だがハンサムには違いない。教師が児童を外見だけで判断するのは大問題だが、今の私には岸先生の感覚データがある。それによると、勉強も運動も優秀な成績らしい。……うん? もやもやと浮かぶデータの中に、トランプのスペードみたいなマークが小さくぽつんと付いている。何だろう。今までの人物にもこういうマークはあったのか? 思い出せない。

 そんなことをしている間に、起立、礼、着席が終わっていた。私はクラス名簿を開き、出欠を取る。ここでまた「おっ」と言いそうになった。この当時、この学校ではまだ男女別なんだ。十五年後に私が着任した小学校では、性別関係なしに五十音順で並んでいた。ただし、体育や健康診断・身体測定など性別で分けた上で記録を取った方が何かと都合のいい場合は、それ用の名簿が別にあった。合理性を優先するなら、男女別の方が理に適っていると言えそうだ。

 とにもかくにも、クラスの三十六名の名前を読み上げ、彼ら彼女らの顔と名前、そしてキャラクターを一致させることにどうにか成功した。岸先生データ様々だ。問題児はいないようだが、喧嘩っ早い子とか特定の科目が苦手な子、あるいは仲のいい組み合わせ、反りの合わない組み合わせなどが大方把握できて、助かる。

「よし、全員来てるな。それではお待ちかねのテスト返却から始めよう」

 一斉に「えーっ!」という声が上がる。この反応はいつの時代も違わない。


 一時間目の授業が終わり、少し迷った。

 小学校の教師は、授業ごとに職員室に戻る人と、そのまま教室内にある先生用の机に座ったままの人がいるはずだ。学校全体で指針が決められているケースもあるかもしれない。高学年と低学年とでは異なるなんていうことも、ないとは言えまい。

 岸先生の感覚が発動するのをしばらく待ってみたが、いつまでもはっきりしない。どちらのパターンもあったのだろうか。

「先生、どうしたの?」

 突っ立っていたのを怪訝に思われたらしく、何人かの児童にほぼ同時に聞かれた。

 どうもいかん。このままいちいち細かいことを気にしていては、かえってその待ちの姿勢自体が、周りの人間には奇異に映るようだ。全部が全部、自己流を通すのは問題があるだろうが、些細な事柄には直感的にぱぱぱっと対処した方がよい。そう心に決めた。

「ああ。次の理科、どこまで進めたのか分からなくなって。昨日、あったはずだけど、代わりの先生にどこまで進めてもらった?」

 無理矢理にでも理由を捻り出して乗り切った。


 一度方針を決めると、肝が据わるものだ。そのおかげと言っていいだろう、昼休みを迎えるまでにしでかした失敗らしい失敗は一つだけに収まっている。

 その失敗というのも、たいしたことではないと思う。上川かみかわという中年男性教師から借りていた写真集を今日返すと約束していた、それだけだ。ただ、最初、男の間で写真集の貸し借りというからにはアダルトな物なのか、そんな物を小学校に持ってきて大丈夫かと焦った。よくよく聞いてみると、工場の夜景に特化した風景写真集だった。

 岸先生、そんな物に興味を持っているのか。一応、記憶にとどめておこう。

 昼を迎え、教室で児童らと一緒に給食を摂る。天瀬がちょうど給食当番――おかず大の係――に当たっていたのでそれとなく観察してみる。

 というのは、何も天瀬が将来の嫁だからという理由からではなく、いや、それも多少は関係しているが。とにかく例の話を思い出したからだ。好きな男子がクラスにいるとか何とか言ってた、あれだ。


 つづく

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