第19話 行き違い

 校長の伊知川直文いちかわなおふみは、立派な顎髭を蓄えた若々しい、エネルギッシュな人物だった。

 例のもやもやっと浮かぶデータによれば、これでも今年五十一歳で、昨年の運動会では張り切りすぎて小指を骨折したらしい。どういう状況で骨を折ったのか、少し気になった。そこまでの情報は付随していない。

「先週までお元気だったのに急に休まれるからびっくりしたよ。はっはっは。でも治るのも急だ。若さがうらやましい。まあ、完璧ではないとのことだから、ぼちぼち頑張って。では」

 と、二の腕や肩の辺りをばんばん叩かれ激励された。波に飲み込まれた気分だ。でもまあ、面倒なやり取りがなくて済んだのはありがたい。

 時計を見ると、午前八時過ぎ。そろそろ児童が集まってくる頃合いか。

 担当する六年三組の子達と、廊下などでいきなり出くわすと、情報を読み取るのが間に合わない恐れがある。その結果、子供達への対応が遅れて変に思われる。うーん、考えたくないが、充分にあり得る。始業前には会わないように乗り切って、教室で全員一度に読み取るのもなかなか大変な作業だろうなと想像されるものの、出席を取るのに合わせてやれば大丈夫のはず。

 ……そう言えば、今日は朝礼の類はない……んだよな。あるんだったら、岸先生としての意識が働くはずだ(あとで確認したところ、朝礼は月曜と木曜に行われる決まりになっていた)。

 職員室に戻ると、朝の簡単な会議――職員会議ではなく、申し渡し事項などがあれば周知するための場――があって、五分と掛からずに終わった。

 さあ、いよいよ初めての授業だ。以前に――といっても十数年後だけれども――一度、初授業は経験済みなのに、今回のはまた別の緊張感を覚える。

 階段を登って、校舎の三階へ。六年三組の教室は、そこから三つ目だ。

 科目は算数。昨日見付けて採点を済ませた答案の返却から始めればいいのだから、まずは気が楽だ。

 と、算段を立てて教室に入ろうとした。十センチくらい開いている扉に手を掛けると同時に、気が付いた。

「んん?」

 思わず声が出たのは、扉の上のところに、黒板消しが挟んであったのを見たから。

 もっ、もしかして、この岸先生は児童達から舐められっぱなしで、制御のできない教師だったのか?なんていう考えが一瞬、脳裏をよぎった。

 だが、それだと昨日から今朝に掛けての諸々のことが辻褄が合わない。

 吉見先生は保健の先生だから何か言ってくれるだろうし、天瀬の態度だってすっかり懐いていた。今日学校に来たあとも、六年三組が学級崩壊かそれに近い状態にあるんだったら、誰も何も言わないなんてことはあるまい。

 私を意を強くして、態度を決めた。

 右手で扉を開け、落ちてきた黒板消しを左手でキャッチする。分かっていて受け止めるのだから、粉が飛ばない位置を掴むのは容易だ。

「こら! おまえら、これは何の真似だ」

 黒板消しを掲げて振りつつ、教壇に立ち、皆に軽くにらみを利かせる。怒ってるんだぞと分からせなければ。

 ところが。

 一部の児童――主に女子はほらやっぱり、やらなきゃよかったのに、みたいな雰囲気でひそひそと囁き合う様子なのに対し、主に男子は違う。

「だって、先生」

 前から二列目、教卓のほぼ正面に座る男児が声を上げた。えっと……後藤春彦ごとうはるひこか。この子がガキ大将なら岸先生もそれと認識していていいはずなのに、何の注釈も付いていない。

「後藤君、意見があるときは挙手して、指名されてから立って答えるように」

 普段、岸先生がこんな指導をしているのかどうか知らない。今はクラスの主導権を握るために必要かもしれないのだから、細かいことは気にしていられないのだ。

 後藤は意外と素直に手を挙げた。指名すると、大きな音を立てて席を立つ。

「五年のとき、先生言ったじゃないか。今度もし休んだら、どんな罰ゲームでも受けるって」

「あ? ああ、そうだったな」

 記憶には当然ないが、本当なんだろう。クラスが五年生から持ち上がりというのもよくある話だ。

「あれは五年生のとき限定の約束かと思っていた」

 教師が子供に簡単に謝ってはいけない、という暗黙の了解の残る学校もあるという話を聞いたことがあるんだが、実際に経験したことはない。ここはどうなんだろう。まあ、あったとしても気にしない。十五年後の世界から来た私は私の流儀でやるとしよう。

「すまん、気持ちの行き違いだ」

 軽くではあるが頭を下げて、話を転じる。

「だがな、罰ゲームと言ったって、あんなバレバレのいたずらまがいのことを仕掛けられても、引っ掛かりようがないぞ。やるのなら、もっと面白いことをやれ」

「……」

 教室の空気がちょっぴり変な感じになった。子供らが目をぱちぱちさせたり、丸くさせたりと、とにかく驚いている。


 つづく

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