第18話 時代の違い

「あ、おはようございます。誰かと思ったら岸先生じゃないですか。本当にお早い」

 中腰のまま肩越しに振り返った男性は、予想よりは若かったが、それでも四十代といった感じか。

 と、そんな感想とは別に、彼を見た瞬間に、頭に中にもやもやと“情報”が吹き込まれる。それによると、目の前の人物は用務員で西崎にしざきとのこと。これは恐らく、この肉体の持ち主である岸先生が、西崎用務員について日常的に抱いている情報、ということなのだろう。もしそうではなくて、機械的な、あるいは天の神的な存在が情報をもたらしてくれてるんだったら、名前はフルネームになるはずだし、年齢や妻子の有無といったパーソナルデータも付いてくるんじゃないかな。

 勝手な想像を膨らませると、どことなく楽しくなってきた。まるでゲームだ。私にとって初対面の人間なのに、ひと目見ただけで名前や職業程度なら把握できるというのは不思議で愉快な感覚だった。

「昨日は休まれたそうですが、お身体の方はもう?」

「え、ええ。全快とは行きませんが、子供らに迷惑を掛けないくらいには回復しましたから」

「それはよござんした。でもまあ、念のためにお大事に」

「どうも」

 西崎用務員は場所を空け、私を通してくれた。なかなか感じのいい人物で、マットを踏むのが申し訳ない気がしたが、土や砂を落とす必要があるのでやむを得ない。

 それにしても「よござんした」と実際に言うのを、初めて聞いた。外国の刑事ドラマか何かで聞いた覚えはあったが。

「あ、他の先生方で、来られている人はいますか?」

「まだだと思います。私、これから校門を開けにいくので、車の方は少なくとも来ていないはずですよ」

 私は礼を言って、彼を見送った。

 車を使って来る先生が誰なのか、念じてみたが、情報が頭に浮かぶことはない。人物と直に対面しない限り何も出て来ない、そう推測される。

「死に直面して十五年前に戻ったというだけでも驚きなのだから、もう何が起きても不思議じゃない。しかし、自分にとって都合のいいことが続くのは気味が悪いな」

 誰も来てないという安心感もあって、ごく小さな声ではあるが呟いてみた。

 普通なら死んでいるところを生きながらえ、この時代で不審がられず生きていくのに必要な人間関係も維持できそうだ。これに釣り合う、私にとって不都合なことがもし起きるとして、一体何がある? 命と同程度に重いものなんてあるのか。

 ちょっと考えてみたが、分からない。しょうがない、棚上げにしておこう。

 自動制御された機械みたいに、廊下を進み、角を曲がって、職員室に辿り着いた。四十ほどある机の内、ほぼ中央にあるのが岸先生の居場所だった。

 十五年後の小学校と比べると、IT化が進んでいないのは当たり前だが、エアコンも見当たらないのには参った。予算不足か? 子供達の教室には備わっているのだろうか。今は五月中旬だからいいが、真夏が到来したらどうなるのやら。

 まあいい。自分にとって当面の問題は、今日の授業だ。岸先生の感覚は岸先生のこれまでの人生経験に基づくものであり、これから先の将来については何かを保証してくれそうにない。教えるのは、あくまで私ということになる。

 そんな意識で最終確認をしていると、時間が経って先生達が一気に来始めた。

「お、岸先生。復帰ですな。さすがお若い」

「もう大丈夫なんですか、急だから心配しましたよ」

「昨日の穴埋めした一人、僕なんですよ。貸しですからね」

 等々、話し掛けてくれるのはありがたいが、その都度、頭の中には彼ら彼女らの簡単な個人情報が浮かぶし、挨拶やら礼やらを返さなくてはならないし、ちょっとしたパニックだった。

「あの」

 そんな中、左隣の席に着いた眼鏡の女性が、改めて声を掛けてきた。えっと、彼女は湯村恵美ゆむらえみ先生、六年四組の担任で、年齢は三十代としか分からない。三つ編みのお下げ髪に黒縁眼鏡の童顔と、文学少女っぽい雰囲気を残している。

「何でしょう?」

「私が思うに、校長先生のところへ、無事を知らせに行かれた方がよいかと。とうに来られているはずですし」

「あ、そうですね」

 反射的に立ち上がった。職員室を一旦離れたいという気持ちもあったので、渡りに船だ。「ちょっと行ってきます」と言い残し、そそくさと廊下に出た。


 つづく

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