第17話 違和感がないという違和感
いざ、着ていく服を選ぶ段になって迷った。
出勤するときからずっとジャージ派か、出勤時はスーツで学校ではジャージか、はたまたずっとスーツ派か。そもそも勤務先の小学校は、教師のジャージ着用を許可しているのかどうか。
とりあえず、両方用意するのが無難だ。スーツを着て、ジャージは持って行く。自転車で行けるのか? 結構かさばるぞ。あの鞄に入るかなあ? もしかして電車通勤? しかし定期券は出て来なかったから違うな。徒歩か? 天瀬の家が近くにあるくらいだし。
どうでもよさそうな事柄なのに、ディテールに間違いがあると、周囲の人間から疑いの目を向けられる恐れがある。
とにもかくにも、迷っている余裕はない。コーヒーをこぼさぬよう飲みながら、スーツの袖に腕を通す。ネクタイも迷ったが着けることにした。結び方まで気にしていたら、何にもできなくなるので自分のやり方で締める。気が引き締まった。
それと同時に、身体全体に何かが行き渡った感覚を得た。
スーツがこの身体だけでなく、精神にまでぴったりフィットしたような、不思議な心地よさ。足元のふわふわ感は相変わらず残っているけれども、それを除けば、しっくり来る。この世界、この時空に生きて暮らしているんだという感覚を得た。
もう一つ、不思議なことが。私は昨日、岸先生と彼の周辺の人間関係、物事なんかを分かった範囲で、必死になって頭に叩き込んだ。小学校までの道順もその一つなのだが、今頭に地図を思い描こうとすると、具体的な実写としてルートが目に浮かぶようになっている。
これは常識的に考えればあり得ない。私はまだその通学路を実際にこの眼で見てはいないのだから、写真として思い描くことは絶対にできないはず。それなのに何故かしらできて、しかもそれは非常な現実味を持って迫ってくるのだ。
もしやこれらの感覚の変化は……と、想像したことがあるにはあったが、時間が勿体ない。わずかでも早くここを出て、早く学校に着き、必要最低限のことを把握しておく必要があるのだから。
うん? でも今し方の新しいこの感覚が学校でも発揮されるのであれば、早めに到着する必要、なくなるのか? いやいや、まだ不確実だ。そもそも、通学路の写真的映像だって、本当に実物そっくりなのかは、知りようがない。これから実際に通ってみて、照らし合わせてみなければ。
部屋を出て鍵を掛けて、駐輪場に向かった。どの自転車が岸先生の物かは、確認済みだ。前輪の泥跳ねカバーのところに、墨字で名前が入っているのだ。今どき珍しいかもしれない。いや、十五年前は、まだ当たり前にあったんだったかな。
ともかく自転車に跨がり、漕ぎ出す。自転車に乗ること自体、結構久しぶりだったため、不安はあったが、案外スムーズに進み始めた。
あとは勝手に身体が動いた。自転車の乗り方のことではない。道順だ。真実、岸先生の感覚が宿って、私の身体を動かしてくれているような気がしてくる。
小学校へは十分足らずで着いた。
時刻を確認してみると、まだ七時になっていない。特段急ぎの用事のない教員が来るにはいくら何でも早すぎると思ったが、通用門は開いている。
学校の内部の構造は全く分かっていないのだが、入らないと何も始まらないので、入る。ただ、何となく忍者コントの忍者のような入り方をしてしまった。
少しだけ遠回りをして、運動場の方へ出てみる。校舎の外観を見たかったのだ。
所在地が都会なだけあって、大きな小学校だ。窓の数とフロア数から想像するに、一クラス四〇人学級として各学年が4~5クラス。それが六学年だから、ざっと見積もって千人規模か。私が十五年後に勤めている学校より、やや多い。が、何とかなるだろう。今朝から感じている岸先生の感覚もあることだし。
敢えて楽観的に捉えるように心掛けて、校舎へ向かう。
出入り口のところで、ちょうど用務員と思しき男性が作業しているのが見えた。ドアを開け放って固定し、足拭きマットの位置を調節している。
「おはようございます」
つづく
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