四章 僕は死体になりましょう? 2—2

 *


 クーラーのきいた快適な病室。

 静かな六人部屋に、すさまじい足音が近づいてくる。病室のドアがあき、猛がかけこんでくる。


「死ぬなッ! 薫! おれを遺して逝くなよ!」


 僕はベッドの上から兄をかえりみた。むしろ、死人みたいに青ざめてるのは猛のほうだ。


「しいッ。病院では静かにしなよね。ほかの患者さんに迷惑だろ」


 猛は聞いちゃいない。いきなり、ガバっと僕を抱きしめる。

 痛い。苦しい。このバカ力め。


「ぐ……苦しい」

「薫! 死ぬなッ。たのむ。生きてくれ!」

「痛い。苦しい……猛が僕を殺す」

「かーくん。そりゃ、兄ちゃんだって、かわってやりたいよ。たのむから死なないでくれ!」


 猛は僕の耳元で、おいおい泣きだした。

 これで二度めだ。こんなふうに猛が人目もかまわず号泣するのを見たのは。

 一度めは両親が死んだとき。じいちゃんのときは、僕の前では涙をこらえて笑っていた。

 猛は、いつも、そうだ。僕の前では、どんなにつらくても、なんでもないふりをする。僕をはげまし、力づけてくれる。


 その猛が声をはりあげて泣いている。熱い涙が僕の耳元から頰へつたいおちてくる。


(兄ちゃん……)


 もちろん、うれしい。胸が熱くなった。けど……。


「ちがうんだよォ。兄ちゃん。はずかしいから、泣かないでぇ」


 ほら、まわりの患者さんが笑ってる。なにしろ、六人部屋だから。


「何が違うんだよ? 薫。おまえがいなくなったら、おれ……」


 ふたたび泣き始める。

 腕の力も増してくるんで、僕は、ほんとに、しめ殺されるんじゃないかと思った。


「猛! 落ちついて。とにかく、僕の話、聞けよ」


 猛は僕の抵抗が思いのほか強いことに、おどろいたようだった。


「死にかけてるにしちゃ、あんがい、元気だな」

「誰も死にかけてないよ。タクシーのバンパーに、ちょこっとポンって押されただけ。ぶつかる直前にタクシー、とまったし。自転車こけちゃって、打ち身はスゴイけどね。左肩に蒙古斑できちゃった」


 あははと僕は笑うんだけど、猛は笑わない。

 だまって僕を見つめたあと、今度は優しく抱きしめてくれた。猛の腕がふるえてることに、僕は気づいた。


(猛にも……怖いことがあるんだ)


 それは、僕の死。

 いやあ、僕って、愛されてるんだなあ。


 十分ほどして、ようやく猛は僕を離した。


「事故って救急搬送されたって、鮭児が言うから、てっきり死んだのかと思った」

「僕も『終わった』って思ったよ。走馬灯って見るもんだねえ。生きてるのが奇跡。しかも、ほぼ無傷だもんね」

「じゃあ、なんで病室に?」

「たまたまベッドが、あいてただけ。いちおう念のためにMRIで診てもらったんだ。検査結果でるまで、ここで休んでなさいって言われた」


 と、そのとき、ナースさんがやってきた。結果が出たっていうんで聞きに行く。とくに問題はなかった。


「じゃあ、もう帰っていいんですね?」

「いいよ。湿布だしといてあげるから、肩に貼ってください」


 お医者さんの許しを得て、自宅に帰った。しかし、これで一件落着ではない。


「誰かに押されたんだよねえ。後ろから」


 僕が打ちあけると、猛はギョッとした。


「それ、殺されかけたってことじゃないか」

「うーん、そうなの? ひったくりだと思ってたんだけど。僕が銀行でお金おろすの見てたんじゃないかな?」


 猛と三村くんは、たがいの顔を見あわせる。そして、もうれつに首をふった。


「ない。ない。そんなん、絶対、ないって」

「そうだぞ。薫。だって、場所、四条烏丸の交差点だろ? そんなとこで、誰が、ひったくりするっていうんだよ。衆人環視じゃないか」

「え? そうかな……」


 言われてみれば、そうかも?

 あれだけの人ごみのなかで、ひったくり。熟練のスリなら絶好のロケーションかもしれないが。あれは、そんな手練れのしわざじゃなかった。むしろ、人目をあびちゃうよね……。


「お金目的じゃなかったってこと?」

「ひったくりなら、もっと人通りのない場所をえらぶだろ。それに、四条烏丸のあの人ごみで、後ろから自転車、押せるのは歩行者だ。かーくん、おまえ、自転車より速く走れるか?」

「走れませんです」

「だよな。いつ自転車乗って逃げるかわからない相手をターゲットにしないだろ。ひったくりなら」


 とつじょ、僕は、ひらめいた。

「まさか、ストーカーかな? 蘭さんの」


 猛は、うなった。


「それは、ありうるな。蘭をガードしてるおれたちは、ストーカーにしてみれば、目ざわりな存在だ」

「現状、僕ら、蘭さんのヒモだしね」

「ヒモ……」


 猛、反論の余地なし。


「蘭さんを監禁して、働かせてるとか思われてたりして」

「………」


 猛は頭をかかえた。

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