ムーンパイの約束
次の週末を迎えた。
「お待たせしました、詩文さん」
先に玄関で待っていた社長に声をかけた私に、
「何だかデートみたいだね」
彼は笑いながら返事をしてくれた。
「そうですね、2人で出かけるのは5月の大型連休以来ですよね?」
スニーカーを履きながら私は言った。
「そうだったね」
社長がそう言って手を差し出してきたので、私はその手を繋いだ。
チラリと彼の左手の薬指に視線を向けると、シンプルなシルバーリングがあった。
私の左手の薬指にも彼と同じデザインのシルバーリングを身につけている。
先週の週末に買った婚約指輪だ。
私たちは婚約をした。
「君の両親にあいさつに行くのは、来月の最初の週末だったよね?」
そう聞いてきた社長に、
「はい、その日なら大丈夫だと両親は言っていましたので」
私は答えた。
「両親は詩文さんに会えることをとても楽しみにしていますよ、初めて男の人を連れてくるって」
そう言った私に、
「なかなかハードルをあげるね…。
君の両親の期待に応えることができるかな?」
社長は苦笑いをした。
「チョコレートにしか興味がなかった我が娘が…って、父親はすごく驚いていました」
「…そう言えば、僕が初めてだって君は言っていたね」
苦笑いをしながら言った社長に、私はエヘヘと笑った。
車に乗って向かった先は、大型連休の時にやってきた社長の生まれ故郷だった。
助手席の窓から移り行くその景色を眺めていたら、
「まさか、こんなにも早くくることになるとは思ってもみなかったな」」
運転をしながら社長が言った。
「えっ…ああ、夏になったらまたこようって言ってましたよね」
私は窓から社長に視線を向けると、社長に返事をした。
「そうそう、僕が選んだ水着を持ってさ」
「み、水着くらい自分で選びます!」
早口で言い返した私に、
「遠慮しなくてもいいのに…」
社長はクスクスと笑っていた。
しばらく車を走らせていたら、
「ちょっといいかな?」
社長がそう聞いてきた。
「はい、いいですよ」
私が返事をしたことを確認すると、社長は路肩に車を停車させた。
「少しだけここで待ってて」
「あ、はい…」
そう言った社長が車を降りて向かった先は、どこかの店だった。
何だろう?
看板の方に視線を向けると、『Patisserieパティスリー』と書いてあった。
どうやらケーキ屋さんのようだ。
少しだけ待っていると、袋を抱えた社長が店先から出てきた。
何かを買ってきたようだ。
自分のお母さんに持って行くお菓子を買ったのだろうか?
「お待たせ」
社長が車に乗ったのと同時に私に声をかけてきた。
手に持っていた袋から何かを取り出すと、
「はい」
私に差し出してきた。
「えっ、いいんですか?」
私は社長の顔に視線を向けた。
「詩文さんのお母さんに持って行くために買ったんじゃ…」
そう言った私に、
「ああ、気づいてたんだ」
社長はフフッと笑った。
「3つ買ったんだ。
僕が子供の頃によく食べていたお菓子だよ」
社長はそう言うと、私の手に持たせた。
「あ、ありがとうございます…」
呟くようにお礼を言うと、
「うん、いい子だ」
社長はそう言うと、袋から自分の分を取り出した。
自分も食べるみたいだ。
そっと手元に視線を向けると、
「あ、ムーンパイだ」
袋に印刷されている文字を見た私は呟いた。
ムーンパイとは、2枚のクッキーの間にマシュマロを挟んで周りをチョコレートでコーティングしたお菓子である。
「子供の頃によく母にねだって買ってもらったんだ。
おやつにこれが出てくると嬉しかった。
懐かしいな」
社長は袋を破ると、ムーンパイを口に入れた。
私も同じように袋を破ると、ムーンパイを取り出してかじった。
「美味しいですね」
意外にも甘さは控えめだった。
ムーンパイは低脂肪だけど、糖分過多のマシュマロが含まれているのだ。
「類似商品としてエンゼルパイやチョコパイがあるけれど、僕は断然これだね」
「詩文さん、チョコパイとムーンパイは違いますよ。
チョコパイは、しっとりとした生地にバニラクリームを挟んでチョコレートでコーティングされた二層のパイに似たお菓子のことを言うんです」
「へえ、そうなんだ。
よく知ってるね」
社長に褒められて、私はフフッと笑ってムーンパイを口に入れた。
「でも、せっかく買ったのに私たちが食べちゃってよかったんですか?」
ムーンパイを食べ終わると、社長に声をかけた。
社長は最後の1口になってしまったムーンパイを口に入れると、
「いいんだよ」
と、呟くように言った。
その顔が悲しいと思ったのは、私の気のせいだろうか?
「そろそろ、走らせてもいいか?」
そう聞いてきた社長に、
「いいですよ」
私は返事をした。
走り出した車を運転している社長に視線を向けると、彼は唇を結んでいた。
しばらく車を走らせていたら、お寺が見えてきた。
「えっ…?」
そう呟いた私に気づいているのかいないのか、車はお寺の駐車場に入ると空いているそのスペースで停車した。
「ついたよ」
社長がそう言ってシートベルトを外したので、
「ああ、はい…」
私は返事をすると、シートベルトを外した。
社長が先に車を降りて、助手席にいる私の前にきて車のドアを開けた。
「ありがとうございます」
私は社長にお礼を言うと、車を降りた。
彼の手には先ほど買ってきたムーンパイが入っている袋があった。
「行こうか」
社長がそう言って手を差し出してきたので、
「はい」
私はその手に自分の手を重ねると、繋いだ。
お寺の中へと足を進めて行くと、お墓が見えてきた。
その中に入ってしばらく歩くと、社長はある墓石の前で足を止めた。
『三谷家之墓』
私は社長に視線を向けた。
「――ごめん」
私と目があったのと同時に、彼は呟くように謝った。
「黙ってて、悪かった…」
続けて呟くように言った彼に、私は何を返せばいいのかわからなかった。
お母さんが亡くなっていたことを黙っていたことに、怒っている訳ではない。
「――詩文さんは、ウソつきじゃないですよ」
呟くように、私は言った。
「私にお母さんを紹介しようと思ってくれたことには、変わりはないです」
私はそう言うと、墓石に視線を向けた。
「三谷さん、って言うんですね」
そう言った私に、
「母の旧姓で、飛永になる前の僕の名前だよ」
社長は言い返した。
「いつ頃、お亡くなりになられたのですか?」
そう聞いた私に、
「2年前に、癌だった」
社長が答えた。
「母は、僕がお嫁さんを連れてくることを楽しみにしていたんだ。
僕が見舞いにくるたびに、母はいつも“詩文はいつになったらお嫁さんを連れてくるの?”なんてよく聞かれたよ」
そのことを思い出したのか社長はクスクスと笑ったけど、その顔は悲しそうだった。
「そのたびに、僕はいつも“そのうちにね”って言って返してた」
社長は笑うのをやめると、目の前の墓石を見つめた。
見つめているその瞳は悲しそうで、彼の気持ちが私の方にまで伝わってくるようだった。
「僕は、親不孝な息子だよ」
社長は自嘲気味に呟くと、袋からムーンパイを取り出した。
ムーンパイを前に置くと、墓石の前で跪いた。
それに倣うように、私も彼の隣で跪いた。
社長は墓石を見つめると、そっと両手をあわせた。
「お母さん、僕の隣にいる彼女――片山心愛さんが僕のお嫁さんです。
連れてくるのが遅れてごめんなさい」
社長はそう言って声をかけると、目を閉じた。
その横顔から、目の前の墓石に視線を向けた。
そっと両手をあわせて、そっと目を閉じた。
(初めまして、片山心愛です)
目の前にいるであろう社長のお母さんに向かって、心の中で話しかけた。
「心愛」
社長が名前を呼んだので目を開けると、彼は私を見つめていた。
「詩文さん」
私が名前を呼んだら、彼は微笑んで手を差し出してくれた。
差し出されたその手に自分の手を重ねた。
その手は、華奢だけど大きな手だった。
私が手を置いたことを確認すると、彼は私と手を繋いだ。
小さな私の手は、彼の大きな手に包み込まれてしまった。
その手は常に私を抱きしめて、私を包んでくれている。
社長は目の前の墓石に視線を向けると、
「これから先のあらゆる困難から彼女を守り抜くこと、浮気は絶対にしないこと、そして…命のある限り、彼女を愛し続けることを約束します」
と、宣言した。
「詩文さん…」
視界がぼんやりとゆがんでいるのは、私の気のせいだろうか?
「彼女は、僕が見つけて手に入れたたった1つの宝物です」
正直に自分の気持ちを伝えるその姿に心臓がドキッ…と鳴って、私の目から涙がこぼれ落ちた。
視界がゆがんでいたのは、気のせいじゃなかった。
「心愛」
社長と目があった。
私と目があった社長は微笑むと、
「片山心愛さん」
私の名前を呼んだ。
「はい」
私が返事をしたら、
「――僕と結婚してください」
社長が言った。
それに対しての答えは、もちろん決まっている。
「――はい!」
笑顔で、はっきりと返事をした。
「私を飛永詩文さんのお嫁さんにしてください」
「心愛!」
社長が私の名前を呼んで、私を抱きしめた。
それに答えるように彼の背中に両手を回すと、抱きしめ返したのだった。
車の中に戻ると、
「はい」
社長が先ほどお供えしていたムーンパイを私に差し出してきた。
「えっ…?」
社長の顔を見た私に、
「君のことだからもう1個食べたいんじゃないかなって」
社長は言った。
「半分こにしませんか?」
それに対して、私は言った。
「どうせだったら、一緒に食べましょう」
続けて言った私に、
「そうか、ちょっと待ってて」
社長は袋を破ると、そこからムーンパイを取り出した。
それを半分に割ると、
「はい、どうぞ」
社長が半分にしたムーンパイを差し出してきた。
「ありがとうございます」
お礼を言って社長の手からムーンパイを受け取ると、それをかじった。
「うん、やっぱり美味しい」
社長は首を縦に振ってうなずいた。
「君と一緒に食べてるからかな」
そう言った社長に、
「き、気のせいだと思いますよ」
私は言い返すと、ムーンパイを口に入れた。
社長は目を伏せると、
「――母は、父のことが好きだったんだと思う」
と、言った。
「えっ?」
何を言っているのかよくわからなくて、社長に聞き返した。
「君と出会う前は、母は飛永の血を根絶やしにしないための要員として愛人にされたと思ってた」
「…そう、言っていましたね」
飛永家の愛人にされたお母さんがかわいそうだったこと、生涯独身を貫くために飛永家に復讐をしようとしていたことを思い出した。
「でも君と出会って結ばれて婚約して、それは違うんだと言うことに気づいた。
母は父のことが好きだったけれど、父と結ばれなかった理由があった。
昔は、今とは違って自由に恋愛ができなかったから」
「…自由に恋愛ができるようになったのは、本当に最近のことですもんね」
「本人の気持ちは、本人に聞いてみないとわからないけどね」
社長はそう言って自嘲気味に笑ったのだった。
「心愛」
社長は私の名前を呼んで、私の顔を覗き込んできた。
「もし君に出会わなかったら、僕は今でも飛永のことを憎んでいたと思う。
亡くなった母への思いから抜け出せれなかったと思う」
「詩文さん…」
名前を呼んだ私に社長は微笑むと、
「君に出会えて、本当によかった」
そう言って唇を重ねてきた。
車を走らせると、
「夕飯は何にしますか?」
私は社長に声をかけた。
「サービスエリアによって食べて帰ろうか」
そう返事をした社長に、
「そうしましょうか」
私は返事を返した。
「そう言えば」
社長が思い出したと言うように話を切り出すと、
「初めてのデートの時もそうだったね」
と、言った。
「ああ、そうでしたね」
そう言えば、初めてのデートの時もサービスエリアで一緒に夕飯を食べたのだ。
「その後にラブホテルに行って…」
「し、詩文さん、もう少しで到着しそうですよ」
間違いなく、いろいろと蒸し返されそうな気がしたので話を終わらせる方向へと進めた。
「ああ、そのようだね。
もう少しだけ初めてのデートの思い出を語りたかったんだけどなあ。
君が“変なこと”をするとかしないとか、のぼせたこととか」
「詩文さん、もうそれくらいにしてください…」
せっかく終わらせる方向へと話を進めたのに、さりげなく蒸し返されてしまった。
恥ずかしさのあまり両手で頭を抱えようとしたら、
「でもあの時と違うことと言えば、今は家があると言うことかな」
社長が言った。
「えっ?」
思わず聞き返した私に、
「僕たちは一緒に暮らしているんだから、もうこれからは君を手放さなくてもいいって言うことだよ」
社長が答えた。
そうだ、私がこれから帰る家は社長の家なんだ。
もう社長と離れなくてもいいんだ。
「詩文さん」
名前を呼んだ私に、
「何?」
社長が返事をした。
「私、詩文さんに出会えてよかったです。
詩文さんに出会って、恋をして、結ばれてよかったです」
あの日、社長に出会わなかったら私は何も知らなかっただろう。
恋をする楽しさも幸せも、それに伴う悩みも苦しさも何も知らないままだった。
社長はクスッと笑うと、
「本当にかわいいんだから」
と、言った。
「そんなことを言われたら、今夜はもうどうしようもないかも」
「えっ、んっ…?」
ヤバい、何か嫌な予感がする…。
いや、これは気のせいだと思いたい…。
社長は私に向かって妖しく笑いかけると、
「覚悟してね、心愛ちゃん?
今夜は寝かせるつもりはないから」
と、言った。
「…えーっと、何がですか?」
「へえ、わかっているのに聞くんだ?」
わかっているから、嫌な予感がしているから聞いているんです。
「ああ、“やめて”って言うのはなしだからね?
もし逃げたりした場合はお仕置きだから」
嫌な予感は見事に的中した。
私、間違いなく今夜は眠れないようです…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます