暗澹たる老衰
朽網 丁
暗澹たる老衰
時間を恐れるというのはまったく奇怪なことで、そもそもその時間に決まって起こる出来事を恐れていただけなのに、今となってはその出来事が起こる時間自体を恐れるようになってしまっている。それが原因で私は専ら睡眠不足の生活を送っていた。
布団の中で携帯を起動させると、ディスプレイに表示された時刻は二時五十分だった。
あと十分もすれば階下で起こる出来事が私に看過できない怯懦をもたらす。私の場合、眠ってしまってもそれから逃れることはできない。もともと眠りが浅い体質のようで、少しでも物音がすると目が覚めてしまう。もっとも最近は眠りの浅さに関わらず、十分な睡眠を取ることができていない。恐ろしくて、深夜の三時が近づくと高まる動悸が私の入眠を許さない。
あと五分。真っ暗な部屋の中で確かに感じられるものは壁掛け時計の秒針だけで、それだけが、明確な時間の経過を私に与えてくる。秒針が振れる回数を一、二と数えていく。単調な速度で数を数えて、三百と少し数えたところで、階下で物音がした。
扉を一つ開けて歩く足音、電気のスイッチを押して、もう一度扉を開ける。それで静かになった。
母が起きた。トイレに立ったのだ。
六十になった母は用を足すために、必ず夜中に一度目を覚ますようになった。これまでの母は睡眠不足とは無縁の生活を送っていることを誇りにしているような人で、眠れない日が訪れることもなければ、睡眠の途中に目が覚めてしまうこともないと豪語していた。健康関連のテレビなどで睡眠に関する諸事情で悩んでいる人が取り上げられたりすると、そういう人たちを鼻で笑ったりするほどだった。
六十になって急激に老いが始まったわけではない。週に二度ヨガに通い、週末は昔の学友たちとバスケに興じている。最近はスキー検定を受けることも考えているようで、テキストを買ったり、付属のDVDを視聴したりと合格するための勉強に余念がない。体型も昔とそれほど変わりない。特別痩せてもいないが、遠目からのシルエットが丸くなったりもしていない。身体のどこかを痛がったり、病院の世話にもなったりもしていない。私の母は一般的に見ても随分と健康的な方のはずだ。
そんな母に唯一現れた変化が夜中トイレに立つことだった。それは決まって夜中の三時前後で、少しの物音でも眠りから覚めてしまう私は、階下で眠る母が起きる度に目を覚まし、母の身に起こった変化を知った。
そんな生活が続いて私の裡に生じた感情は、毎夜起こされて迷惑というものでは決してなく、ただ恐ろしいというものだった。
あれだけ健康に気を遣い、歳を取っても大きくは変わらなかった母が、しかし確かに老いていたのだ。もちろん母の老いがまったく外に現れ出ていなかったわけではない。顔を合わせれば見たことのない皺やシミが覗かれることもあったし、耳が遠くなってこれまでの大きさの声で呼びかけても返事が来なかったりもした。ともすればそういう変化こそが人の老いの本当の現れかもしれないが、私にはそうではなかった。
私には夜中に眠りから覚め、トイレに足を運ぶ母の姿、正しくはそうして彼女が周囲に生み出す物音こそが人の老いなのだ。母の老い、そのものなのだ。
私が小さな物音で起きなければ、母の老いに気付くのはもう少し後のことだったろう。そう考えると、まるで母は私に隠れて老いていくように思われるのだった。深夜に一人、同居している息子に隠れるように真っ暗なトイレに足を運ぶ、それこそが親の老いの正体なのだ。
得体の知れないものの胎動を毎晩階下に感じることで、私はその恐怖にすっかりまいってしまった。いつまでも元気でいるものだと、根拠もなく思っていた母が、それに付随する不明瞭な怯懦が、深夜の三時に目を覚ます。私はこの怯懦とこれからずっと住まいを同じくし、やがてもっと恐ろしい老いの目覚めを知ることになるのだろう。その時までまだいくらか時間はあるだろうか。
また階下で音がした。扉の開閉とスイッチの押される音が微かに聞こえて、それ以降はどれだけ耳を澄ましても何かの音が聞こえることはなかった。私の部屋の時計の秒針の音も、そのうち聞こえなくなる。
暗澹たる老衰 朽網 丁 @yorudamari
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