19. なみだ

 子供のころ、町の片すみにある沼に、河童が一ぴきんでいた。


 雑木林に囲まれた沼は、コンクリートに四角くちいさく切りちぢめられ、あしのなかにうずもれて、大量のごみが浮かんでいた。

 それでも河童の姿をみつけるのは、至極しごくかんたんなことだった。

 あおく腐った水の中から、河童は頭だけ出して、じいっとこちらを見つめるのだった。

 人間のようで人間でない、底光りする両目から、ぽろぽろ涙を流しながら、いつもこちらを見ているのだった。

「泣き虫河童」

「泣きべそ河童」

 学校の子らが嘲笑しながら石や空き缶をぶつけている、見るもみじめなその姿が、私はなぜか恐ろしかった。

 のさす真昼のさなかでも、友だち数人あるいていても、涙をながす河童の頭をみるだけで、背すじがぞうっと冷たくなり、腕にはざわっと鳥肌がたった。

 河童の幻影におびえた揚句にトイレにゆけず、寝小便のき目を見たことは、十や二十できかないのだった。


 そんな私がお使いに出され、沼のわきを通らざるを得なくなったと言うのだから。あろうことか、日暮れどきに。

 あおい夕闇のせまるなか、防犯ブザーを握りしめながら、必死で走るその足もとはおぼつかず、ついによろけてつまずいた。

 よりにもよって、沼のまん前で。

 迫る夜闇、ざわめく林、臭い沼。そのまん中に確かに存在しているだろう、あの不気味な涙を流しているはずの、夜より暗い恐怖の根源。

 必死に振り払おうとした。そのためにとった行動は、防犯ブザーのライトをつけて、恐怖のもとを光で照らすことだった。

 震える光のただ中に、汚水とごみにまみれながら、河童の頭はこちらをじいっと見つめていた。

 怨むように、訴えるように、ぽろぽろ涙を流しながら。

 夜の闇と、頼りないライトの光に浮かびあがったその姿は、日の光のもとで見るよりはるかに不気味で恐ろしく見えた。

 またも振り払おうとしたのだ。右手は大きく振りかぶって、防犯ブザーを投げつけた。

 当たりどころが悪かったのか、いや良かったと言うべきか。

 小さく重いブザーに撃たれて、河童の頭はひっくり返った。

 ボールが跳ねてころがるように、ひっくり返った河童の頭は、沼の汚水に隠れていたその首根っこをさらけ出した。

 切り口だった。

 青ぐろい肉といくつかの穴、それに、するどく断ち切られたむざんな骨の断面を、私はたしかに目にしたのだった。

 ブザーが水のなかに沈み、一瞬きりのあの光景が消えた闇に、私は悲鳴をはりあげた。

 あの哀しげに涙をながしていたものが、河童ではなく、切り落とされた河童の首だという真実が、私を恐怖で貫いた。


 かつてははるかに広かった沼が、あそこまで埋められたのはいつなのか。

 沼を埋めた人間と、河童のあいだに一体なにがあったのか。

 あの河童は、首から下を失ってから、どれほど永く、ああして涙を流しながら人間たちを見つめてきたのか。

 調べる勇気もないままに、あの町へはもう十数年も戻っていない。

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