クローゼットの中

 死んだはずの妹が、私のクローゼットに住んでいる。


 私の妹──五百雀いおじゃくゆずは一年前に自殺した。

 柚の屍体は現在もまだ見つかっておらず、残された遺書や、樹海へと続く深夜の山道で柚の姿を目撃したという証言から、捜索も早々に打ち切られた。自殺名所として名高いその樹海には乱立する無数の鳥居によって特殊な結界が張られており、死を望む人間とそうでないものとではいく先が違うらしい。ゆえに世間では柚は死んだ存在として認知されており、私もそうだと思っていた。


 しかし、それなら──


 私のクローゼットに住む彼女はいったい誰なのか?


「誰でもいいじゃないのさ」声は影から笑う。「私が誰であっても、お姉ちゃんの妹であることに変わりはないんだし」


 眠りにつく寸前の僅かな時間にのみ発光する橙色のテーブルランプに照らされ、白い肌がクローゼットの影からぼわっと浮かんだ。その有り様は霧の都のように不透明、その姿は世界を俯瞰する幽霊のようで、私は触れて確かめようと指を伸ばす。──心地のよい、冷たく柔らかな感触……安堵か、あるいはより複雑な感情を覚える。


「どうしたの、私の頬っぺたつついたりして」

「夢かと思った」


「変なの。それなら自分の頬っぺたつつけばいいじゃん」柚は小動物のような仕草で首を傾げて云った。深海魚的な美しさを秘めた瞳が、まっすぐに私を映す──「それよりお姉ちゃん、冷蔵庫にピクルスが漬けてあったんだけど、食べていいのかな」


「……えっ、ああ。うん、いいよ、食べて」


 強く肯いて、妹に対する妙におどおどとした声色を誤魔化す。そもそも、柚はピクルスなんて好きだったっけ……?「『グラス・キューブ』っていう最近できたショッピングモールで売ってたの。最近って云っても、柚が死んだあとだけど」

「死んだあと? なにそれ。さっきのは冗談だよ、冗談。チーズバーガーに挟まっていないピクルスは食べられないの、私。挟まってても、わざわざ引っこ抜いて食べるし」

 頬に添えられたままの私の指を面白そうに凝視しつつ、柚は応えた。


 私は以前から柚に訊きたいことがあった。けれど、何を訊くべきだったのかを忘れてしまった。

 柚は一日中ずっとクローゼットの中にいるのか、あるいは私の見ないうちに外に出かけているのか、そもそも柚はいつから私のクローゼットに住んでいるのか、多分そんなことだったんだろうけど。泡沫のごとく浮かんでは消えていく疑問の中からようやく一つを捕まえて、私は口を開く。

「柚はどうして自殺したの?」

 質問に深い意味はなかった。答えは自明であり、つまり柚はいじめられていたのだ。柚を死へと追いやったいじめは遂には暴かれることなく、学校や周囲の人間たちによって揉み消されたのだが、皮肉にもいじめの主犯格である五人にはより残酷な制裁が加えられることになる。

「なに云ってるのお姉ちゃん? お疲れのご様子だねえ。早く寝たほうがいいんじゃないの」

「……うん、そうだね、もう寝るよ」

「いい子だねえ。よしよし」云って、柚はベッドに這い寄ってきて、私の頭を撫でる。


「けどさ、わけがなんであったって、自殺なんてした方がいいよね。自殺なんてする人間は二種類しかいない、つまり、悟りすぎた賢者か、考えすぎた愚者か……。どちらにしても、人に神から与えられた命を自ら屠る権利なんてないんだよ」


「そうだけど」──それは、自分の内側で完結してしまっている場合の話。「でも、いじめられて自殺するのは、違うんじゃないかな。辛くて、ただ、楽になりたかっただけなんじゃないかな。いじめられて自殺した子たちは、たぶんいじめられていなかったら普通に生きていけたんだ。だから、きっと神様だって……」許してくれる──その言葉を遮って、柚は云う。「普通に生きられないからいじめられるんだよ。さあ、早く眠りなさい、子守唄はもう聞こえない」「子守唄?」「赤目の猫だよ。歌う声が聞こえるでしょ」「ううん」「ありゃそれは不幸だねえ」「柚よりも?」「私はあねじゃよりも幸せなのよ」「おやすみ」「うん、おやすみ」──それらの言葉をきっかけに役目を終えたテーブルランプは自ら光を封じ、密度の高い闇が部屋に充満した。南側の窓から薄いカーテンを透かして月光が差し込み、柚の肌が仄青く発光する。発育の不完全らしい華奢な体躯は、人形よりも人と離れて感じられた。


 柚は私のベッドで寝ることもあれば、クローゼットの中で寝ることもある。どちらにせよ、朝になると柚は私の世界から消える。おおよそクローゼットの中に戻ったのだろうと私は推測するが、真偽を確かめたことはない。何かが壊れてしまう、そんな脅迫めいた想いが私をどうしても臆病にさせる。


 黒猫は常に窓の縁に座り空を見ている。こちらから確認できるのは月光を遮るそのシルエットのみ。時々発光する赤はその瞳の色。すなわち血色の狂気。



 ──



 以上のような記憶が脳内で何夜分も錯綜し、私はついにある仮説を立てるに至った。つまり──


 


 自殺した妹の死を受け入れることができず、私は無意識下のうちに柚という存在を心の内側に作り上げてしまったのではないか。柚をいじめから救うことができなかった罪、それに対する自責の念が創り上げた幻なのかもしれない。だから、柚は私のクローゼットの中にしか現れない。他の人間が柚を認知できないことを私が認知してしまえば、柚の存在をこの世界に存続させる上で決定的な矛盾が生じる。ゆえに、柚は必ず私にしか認知されることのないタイミングで出現するのだ。

 しかし、この説には欠点がある。それは、私は柚が自殺したことを知っていて、柚の死を認めているいう点だ。したがって前提条件である「柚の死を受け入れることができず」という部分は偽であって、ゆえに仮説は成り立たない。

 あるいは──もしかすると、あれは柚なのではなく全く別の誰かなのかもしれない。柚であると偽り私のクローゼットに潜む理由など、ストーカーでもなければ何もないはずなのだが、可能性は零では──ストーカー? ストおかアあ? いいえ、なんでもない。なんでもない。


 しばらく街を騒然とさせた高校生五人の連続失踪事件はのちの屍体発見により殺人事件へと変貌し、これにより私の仮説は貧弱なものとなる。

 殺された五人は、柚をいじめていたグループの主犯格であったからだ。

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