グラス・キューブ

 今日も相変わらず臨時休校であった。三名の生徒が失踪し、さらに学校には脅迫状めいた手紙が送りつけられたのだから、当然と云えばそうだろう。ニュースによると警察は誘拐などの犯罪の可能性も視野に入れて捜査を進めているそうだ。

 平日の休暇を存分に楽しむために、僕は映画を観に行くことにした。


 毛細血管のように街に張り巡らされた鉄道路線が多重に交差するその駅──東詩乃木枠ひがししのきわ駅は、僕の住む詩乃木枠町のシンボルである。なんとも呼び難いその駅名は『東の際ひがしのきわ』という略称で親しまれており、遊びやデートの際の待ち合わせスポットとしてメジャーな場所だ。

 近頃、その『東の際』のさらに東の端に大型ショッピングモール──『硝子の玩具箱グラス・キューブ』が建てられた。飲食店、衣料品店、書店、映画館など百店舗以上の店々が詰め込まれたそのキューブは、海外の著名な建築家によってデザインされたらしく、全面硝子張りの巨大な立方体というなんとも奇抜な外見だった。周囲との調和を全く無視し、独立した世界観を構成するそれは、云われれば確かに天才のなせる業なのかもしれない。

 太陽の白い光を全面に受け激しく眩耀する硝子面は嫌気が差すほど眩しくて、僕はムービングウォークの味気ない地面を執拗に眺めていた。初めて来たらしい中華系の外国人が興奮気味に歓声を上げ、僕の前でスマートフォンを掲げている。やがてムービングウォークは駅とキューブを結ぶ連絡橋の終端に差し掛かる。欠損のない硝子面に唯一ぽっかりと開けられた長方形の穴は正面出入り口であり、その先はエントランスホールだった。

 キューブの内側で僕たちを迎えたのは、硝子の天井による過度な採光によって白く染められた空間であり、四肢を絡ませながら天に向かう天使たちの塔だ。喜怒哀楽──さまざまな表情を見せる天使たちは互いに四肢を絡ませて、あるいは身体ごと融合させて、塔を形成している。その頂天では、少女の姿をした一人の天使が虚ろな表情で下界を眺めていた。これらすべてはアクリル樹脂で作られており、透明だった。

 塔を円の中心とした円周上には三メートルほどの間隔で柱が立っていて、中の空洞は水槽になっていた。硝子面の内側でカラフルな熱帯魚たちがその煌びやかな鱗を発光させ踊っている。周囲にたかる人間たちは天使の塔にスマートフォンを向けていた。側から見るとその有り様は何かの宗教団体のようで、虚ろな瞳はおそらく彼らに向けられているのだろう。

 熱気を帯びた人群を避けつつ、映画館のある五階に向かうためのエスカレーターに乗る。その途中で、僕は自分が随分と空腹であることに初めて気がついた。上映時刻まで十分に時間があるし、平日の昼間に席が完売するとは思えない。畢竟、踵を返して、僕は一階に下るエスカレーターに乗った。記憶が正しければ、一階の最奥はフードコートだったはずだ。


 ─────しかし、一階に下りて少しばかり通路を進んだ僕は、なにやら周囲がオカシクなっていることに気づき始めていた。


 いわば迷子という状況に置かれているのかもしれない。過去にフードコートには何度か訪れたことがあるのに、そこに至る道が記憶とは明らかに異なっている。なにが? 改装工事でもあったのか? オープンしてから、まだ半年も経ってないのに? そもそもキューブという単純構造の中で道に迷うことなどあり得ないのであって──いいや、映画の『CUBE』のように内側は複雑怪奇な構造になっているのかもしれないが──しかしここは一体どこなんだ?

 通路の概観自体に変化はなかった。床はチェス盤のように硝子面と黒色の面が連続していて、左右には店が並んでいる。だが店の趣は以前とは明らかに異なっていた。加えて、人間たちの様子もどう見てもオカシイ……。『フラミンゴ』のように四肢をクネクネと動かしながら這いずってくるもんだから、僕は距離を置いて恐々と歩くしかない。近くの店では二頭身くらいの異様に頭の大きな老人が家鴨の首を掲げて叫んでいる。

「いかがですか、いかがですか。そこの兄さんいかがですか、丸々太った家鴨の老婆! 茹でても焼いても美味しいですよ、とてもいい声で鳴くのです、ほらお鳴きなさい、鳴けえぇぇ! ぐえっ、ぐえっっ、ぐえええぇぇえええ!!」「この筒状の機械を使えば、あらゆる動物で──できれば哺乳類がよろしいのですが──ソーセージが作れます。使い方は簡単、穴に筒を差し込んでレバーを回すだけです、筒の中のこの刃の部分が勝手に周りの肉をグチュグチュ削ぎ取って、クルッと腸に包んでくれるのです。今ならお安くいたしますよ」「毒漬けピクルスはどう? とある工場の工業廃水で漬けてるの。みんなみんなオカシクなっちゃうようなシロモノで、五年漬け、十五年漬け、三十年漬けとあるのよ。チーズとよく合うかもしれないわね」

 どうにもできない感情に襲われて僕は走り出した。ここの人たちはみんなあの工場が流し続けた毒にヤられてしまったのか? 奇形児の産まれる確率が高いなんて出鱈目だと思っていた。いやそんなことはどうでもいいんだ。ここはどこなんだ? 『空見』なのかもしれない。ああ、すべては空見なんだ……。


「来て」


 声。無意識に視線を下げると、黒猫が僕の足元にいた。彼女──声色から判断して女性らしかった──は、僕の姿を一瞥してにゃあとだけ鳴き、通路の先へと進む。黒猫が喋ったことに今さら疑問を抱かなかった僕は彼女に誘われ、歩みを進めるうちに、いつのまにか目前にフードコートが現れた。空腹などとうに忘れていたのだが、妙に喉が渇いていた。

 フードコートは無人だった。店員もいない。何のためにここに存在しているのかさえ分からない。ただ無数のテーブルと椅子が規則正しく並んでいて、空気の中に長いこと固定させられているようだった。

 黒猫はいなくなっていた。

 ウォーターサーバーから注がれた水は目が覚めるような冷たさで、喉を潤すには十分であったが、まだ世界はオカシなままだった。

 空間の片隅に、人影があった。影は深く夢の中のようにその部分だけが不明瞭であったが、近づくにつれ徐々に鮮明さを増し、ついにそれが知人であることに気がついた。

 音無おとなしゆう。僕の同級生で、同じクラスの生徒だ。

 ただ一人そこに座っている音無は、僕の姿を認めると口を開けた。しかし声は出ない。それもそのはずだ。音無だからだ。彼の発する音はすべて彼の苗字によって吸収され、ゆえに彼は一切の音を発することができないのだ。


「……ここで何をしているの?」


 訊くと音無は鋭く瞳だけを動かし僕に原稿用紙の束を差し出した。机上にはシャープペンシルと消しゴム、そしてどこから買ってきたか全く分からない『ミスタードーナツ』のエンゼルフレンチ。彼は小説を書いていたらしかった。

 僕は彼の対面の席に腰を下ろし、それに目を通す。『黒猫幻想論』ヘンテコな題名だった。そういえば見ようと思っていた映画の題名などんなだっただろうか…………今さらどうでもいいのだけど………………書き出しは以下のようであった。


『死んだはずの妹が、私のクローゼットに住んでいる──────

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます