黒猫幻想論

ゐか

ピクルスについて

「なあ、俺、もう死ぬかもしれへん」


 猛烈な熱気を帯びたアスファルト、あるいは連立するビル群のガラスに反射する陽光が、静かに世界を狂わせる──今はそんな曖昧な時刻。地を這う烏も、空飛ぶペンギンも、みんな茜に染まり茜に溶ける。


 客の出這入りがニュートン算のように慌ただしいマクドナルドの店内は、まだ現実の範疇にあるようだった。街の有り様を鮮明に映しだす長方形の窓ガラス。それに面したカウンター席の隅に並んで座る僕ら。まだ一口も手をつけていないチーズバーガーを左手に持ったまま、藤康助ふじこうすけは云った。

「きっと死ぬんや、俺は死ぬんや」

 世界の全てが自分を裏切った、そんな顔付きで眼下の景色を見下ろす彼は、数時間後、死ぬことになる。そのことについて、僕が彼に同情することはない。むしろ、それとは反対の気持ちを抱いていた。だから、「死にたくないの?」と応えた僕の言葉には一切の想いが欠けている。強いて云えば、彼がいつチーズバーガーを口にするのか、そればかりが気になっていた。


 そんな僕の態度に苛ついているのかもしれない、「死にたい人間なんてどこにいる!」藤の口から激昂が飛んだ。大きな声を出せば何かが伝わると信じているような人間だから君は死ぬのだよ、と僕は心の中で笑った。口に出せばきっと打たれるから云わないのだけど。


「ねえ、ここ離れない?」「ちょっと怖いんだけど」「喧嘩なら店の外でやって欲しいよね」「それに、あの人いつチーズバーガー食べるの? ずっと持ってるんだけど……」囁く声が彼方此方から聞こえた。

 気づくと、近くに座っていた女子高生のグループが訝しげに僕らを睨んでいた。微妙な雰囲気の変化を感じて、藤は慌てて顔を俯けた。


「……死にたくないんだ。俺はまだ、死にたくない」


 今度は喘ぐように云った。涙を流している。藤が泣くところを僕は初めて見たが、そんなことはどうでもよかった。早く食べろよ、チーズバーガー。

「死にたくない、死にたくない……」

 藤は子供のように泣き出した。周りの客たちもいよいよ尋常ではない様子に危機感を抱いたようで、ぞろぞろと一階に下っていった。

 残された僕は困惑した。彼が死ぬことは確定事項で、いわば自業自得なのだ。死にたくないからといって、死は避けられない。誰だっていつかは死ぬんだ。


「死にたい人間なら、君たちが殺したあの子は? あの子は、死にたかったんだろうなあ……」


 かつて生きていた一人の少女について──あるいはそうではないのだけど──僕は軽い気持ちで呟いたのだが、どうやら彼にはクリティカルだったらしい。藤の心を揺さぶるには、あまりにも効果的すぎた。

「……っ!!」

 藤はチーズバーガーを持っていない方の──つまり、右の拳を震わせた。怒りとも似た激情が、彼の瞳の中を渦巻いている。


 茜色……絶望……狂気……!


「あいつ、……あいつのせいだ!」

 空間ごと捻れたみたいに、その顔はぐにゃりと歪む。あれほど賑わっていた店内は、今はすっかり静寂に支配されていた。人が消え、代わりに何か生命らしきものの影が踊る、淡い照明の光を避けるように。


「あいつが死にやがったから、こんなことになったんだ!」藤が叫ぶ叫ぶ。「虐められて死ぬようなやつは、この先、仮に生きてたってろくな人生を送れやしねえだろ。何処かでおんなじように虐められて、身体か心が死んじまうのがオチさ! なら、そんな糞みてえな人生、早く終わらせてやるのが良心ってもんじゃねえのか?」


 人がいなくなって喋りやすくなったのだろうか、藤の口調は指数関数的にヒートアップしていった。


「普通に歩いて、普通に喋れるようなやつなら、虐められはしねえだろ? それができねえやつなんて、生きてる価値あんのか? ねえだろ、なあ? あいつが死んだのは俺らのせいじゃねえ、自分自身のせいだ! あいつが普通に生きられなかったからだ! だから、なのに、なんで…………俺が死ななきゃいけねえのだよぉぉおお!!!」


 轟々と響く絶叫。それが店内の影を愉快げに揺らし、しかし最期には潰えた。藤の首は前方にがっくりと項垂れ、顔面は蒼白だった。残響が宙に溶けて消えたのと同時に、ピタッと、影も影を生み出していた何かも凍ったように動かなくなった。


「子供の頃、ピクルスが嫌いだったんだ」


 ポッカリと空いた静寂を埋めるかのように、僕は云う。少し気まずくなったからだ。僕と藤しかいなくなった二階の店内で気まずさを感じる理由など、最早ないと云われればそうなのだが。


「チーズバーガーの中に入ってる、ピクルスが苦手だったんだ。食べる前に上側のバンズを外して、わざわざピクルスを引っこ抜いて食べるくらいにはね」ここで僕は、指二本でハンバーガーからピクルスを引っこ抜くような仕草をした。その方がかっこよさそうだったからだ。「けど、今は嫌いじゃないよ。ピクルスの酸味とチーズの甘みがいい感じにマッチするって思えてきたんだ。本当にそうなのかは知らない、イメージの問題さ。現実にはピクルスを抜いた方が美味しいのかもしれない。でも、もう子供じゃないし、今更ピクルスを抜くことなんてできない。チーズとピクルスのハーモニーを信じるしかない。大人になるってそう云うことなんじゃないのかな?」


 どんなに理解のできないことも、理解しなければならないときがある。時々空にはペンギンが飛んでいる。建物は膨張収縮を繰り返して、多分だけど呼吸している。全ては『空見』。きっと空見なんだ。


「すいません、お客様……。他のお客様のご迷惑となるようなことは……」騒ぎを聞きつけて一階から上がってきたらしい女性のクルーが、何か恐ろしいものを見てしまったかのような瞳で僕らを窺う。「ご退店していただき、あるいは警察を……」


「お前は、俺に大人になって、死ねと云うのか?」

 蚊の羽音のような微弱な声音で、藤は呟いた。その頬を染める茜は十分に幻想の範疇だった。

「……えっ、そんなこと云ったつもりはないよ」

「は?」

「僕は、君がピクルスが嫌いでチーズバーガーが食べられないんじゃないかって、思ってたんだ。チーズバーガーを勧めたのは僕だからね。もしそうなら、悪いことをしたのかもしれない」

「何云ってやがる……」

「早く食べろよ」僕は藤の左手に握り締められ圧迫され体積が従来の三分の二程度になったそれを指し示した。

「チーズバーガー」

 どこからともなく現れた黒猫はテーブルを器用に伝って僕らの前に座り、にゃーと笑って見せた。

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