アロサウルスはまだ泣かない

古川 奏

第三保護施設



「いきまーす」


 となぎの声。私がOKの合図を出す前に、洗浄液の噴射が始まる。

 飛沫を顔に浴びながら、ちゃんと確認してから開始してほしい旨を訴えようとするけど、ノズルを握る凪の姿がキラキラ光る水滴の向こうに見えて、なんだか全部、まぁいっか、と思う。

 凪は全然マニュアル通りに仕事をしない。でも不思議なことに、私が凪のそのやり方に合わせれば、作業は気持ちいいほどスムーズに進むのだった。

 濡れた顔をタオルで拭きながら、ブラシを手に、凪の横に立つ。


「今日もやりがいがあるねぇ」


 楽しそうに凪が言う。洗浄液が恐竜の背中にある大きな傷口に勢いよく当たり、泡を含んだ血が弾けて飛び散る。わ、と声を上げ、私たちは一歩下がった。


「やっぱ深手はやだな。髪汚れたりするし」

「ほら志帆しほ、そういう発言禁止って言ったじゃん」

「え、髪汚れるからやだなっていうのもダメなの?」

「そうだよ。ネガティブワードは全部禁止」

「んー厳し」


 恐竜が大きく身をよじる。自分が洗浄されていることにようやく気付いたようだ。

 暴れるほどの体力は残っておらず、半開きになった口から岩が擦れ合うような音を響かせるばかりで、傷の深さに見合った苦しみ方さえできずにいる。ここに送られてくるのは、そうした深手を負って弱った恐竜ばかりだ。


『末端にも恐竜作戦に参加を』というのがこの仕事の存在理由だ。負傷した恐竜の傷口を洗い流し、不要になった皮膚を削り取り、全体を消毒する仕事。

 私たちのような戦力にはならない高校生にこうした仕事を手伝わせることで、この国の一員として戦闘に参加している意識を持たせ、連帯感や結束感を高めようとしている。というのは私の推論だけど、そういう穿った考え方を嫌う凪にはいらない邪推だと一蹴された。隠された真実なんてどうでもいいと凪は言う。


「このバイトのおかけで志帆とこうやって出会えたんだもん。ラッキーでハッピーだよ」


 凪のそんな言葉を前に、私のネガティブな思考はすべて弾け飛ぶ。とても綺麗に、割れるガラス玉みたいに粉々になる。あーあ、とは思うけど、それは清々しいくらいに透明な粉砕なのだった。


 私の高校と凪の高校は大きな川を隔てた所にあって、川に架かる橋のそばに建つこの恐竜保護施設がちょうど二校の中間地点にあたる。

 ペアを組まされて作業を開始した当初、私は凪の自由な言動が理解できず、会話すらうまく成り立たせることができなかった。警戒心を盾としてきた私にとって、あまりに自分の感情に素直な凪の様子は恐ろしくもあった。

 そもそも、見ているものが違っていた。例えば、私がこのバイトを始めたのは単純にお金のためだったけど、凪は生の恐竜が見たいというのが動機だった。最初それを聞いた時には唖然としてしまった。

 凪が生の恐竜を見て興奮していたのは最初の三日間だけで、五日経つ頃には「みんな覇気ないね」という感想へと変わった。負傷してここに来るのだから元気なわけがないのだけれど、落胆したふうにそう言った凪の顔が可笑しくて、思わず笑ってしまった。


 ノズルを動かしながら、凪は小さく鼻歌を歌っている。恐竜は重たそうに自分の首を左右に振り、そのたびに首の鎖がしゃらしゃらと鳴った。

 背中の傷口からの出血がだんだん少なくなってきた。恐竜の硬く厚い皮膚は切り込まれたと言うよりは抉り取られたと言う方が近い負傷の仕方をしている。最近よく見る傷の形状だ。


「よーし。はい志帆」

「ん」


 凪は洗浄液を当てる場所を移動させる。今度は私がそこにブラシを当て、皮膚のめくれた部分を完全に剥がす。

 ブラシは電動である分ずっしりと重く、扱うのに力が必要だ。身長が高いからという理由でいつの間にか私がブラシ担当になったのだけど、なんだか少し納得いかない気がしないでもない。でも私は凪が鼻歌を歌いながらノズルを握っている様子を見るのがすごく好きなので、まぁいっか、と思っている。


 ブラシの柄にあるスイッチをONにし、発生する振動に圧を加えつつ擦り始める。恐竜の皮膚は負傷した部分から徐々に亀裂を広げ、爛れ落ちるようにして捲れ剥がれていく。皮膚の痛覚がどうなっているのか不明だけれど、この段階で痛がる恐竜はほとんどいない。そうした回路は遮断されているのかもしれない。

 後ろ足の付け根に噴射される洗浄液の水圧に押されるかのように、恐竜の体が斜め後ろに傾いた。大きな足が地面を踏む。踏まれたら即死だ、といつも思う。恐竜本体にその元気があればだけど。


「がんばれ。君はまた再生する」


 励ますように、凪が声をかける。恐竜が背を震わせ、尻尾を向こう側にずりりと引きずった。


「凪、危な」


 い、と言い終える前に、凪はぴょんと後ろに跳び退いて、尻尾の先に弾かれるのを回避した。こちら側に叩き付けられた尻尾はすぐにまた向こう側に回って地面を叩き、そこにできた水溜まりを弾いた。びしゃんという音が作業場に反響し、飛び跳ねた水が天井を濡らした。同じ作業をしていた他のグループが一瞬だけこちらを見やり、またすぐ各自の作業に戻る。


「元気じゃん。よかった、大丈夫だ」


 凪はそう言うと、ノズルを強く握り締め直す。その根元に繋がる給水装置が、かつん、と音を立てた。


 怪我の深さのわりにはよく動く尻尾だ、と思った。それが意味するところがなんなのか、私には推測できない。

 私たちに開示されている情報によると、まるで作られたシナリオをなぞるかのように、戦闘のすべてが順調に進んでいるようなのだ。恐竜は敵を常に圧倒していて、戦いはずっとこちらが優位の状態で続いているらしい。同時に進行する恐竜の戦闘能力向上計画も着実に成果を上げており、恐竜一匹が殲滅できる敵の数も飛躍的に上がっているのだという。

 そうした結果のおかげなのか、私たちの生活は戦闘開始前とそれほど変わってはいない。高校には自転車で通うし、コンビニに寄ってジュースを買うし、川辺でそれを飲んだりする。変わったのは、寝転んで見上げる空に出撃する恐竜が数頭飛んでいたり、迎撃のために海へ向かう恐竜の長い首が眼前の川を滑るように泳いでいたり、そういう部分的な風景の変化だけだ。脅かされているはずの私たちの生活は、恐竜が敵と戦って鎮圧することによって平和に保たれている、らしい。


 でも私たちは、恐竜の体に刻み込まれる傷口の形が、深く大きく複雑なものに変化していることに気付いている。それは明らかに、敵の攻撃の変化と、受けるダメージの深度の変化を示している。

 きのう洗浄した恐竜には顕著にこれまでと違う傷があった。被弾の跡だ。おそらく敵は、遠距離からの攻撃を可能とする何かを恐竜に向けて放っている。


 それは嫌な予感だった。小さな亀裂から発生したごくわずかな、でも確かに震える不安だった。ただの末端に位置する自分がなにをどう憂慮しようと無意味なのだけれど、だからこそそれは、私の底で静かに増幅した。


 きのうのバイト終わり、消毒液のにおいの満ちる更衣室で、ため息をつくのと一緒に、その不安は口から漏れ出た。


「こんな平和とか幸せって、やっぱり嘘っぽいと私は思う」


 凪は汚れた作業着を脱ぎ捨てて、下着しか身につけていない状態だった。凪の健康的でしなやかな体に、その清潔な白はよく似合っていた。

 いつもの凪なら、悲観的な発言をする私を咎めただろう。臆病なせいで発達してしまった厭世的な私の思考回路を、凪はけっこう本気で嫌悪していた。少しでもネガティブなセリフを吐けば、すぐに訂正の指示を入れてくる。

 ただ、その時の私たちは、それまでで一番酷い怪我をした恐竜を洗浄した後だったのだ。私も凪も、くたびれていた。洗浄液を吹き付けても吹き付けても流れ出てくる血に、擦っても擦っても崩れ落ちてくる焼け焦げた皮膚に、全身の骨が擦り切れるくらいへとへとになってしまっていたのだ。この状況に対する一通りの冗談を言い終えた後に力尽きて、会話はぷつんと途切れてしまっていた。

 だからなのか、凪は私の中に充満しつつある嫌な予感を、言葉にして放出することを許した。ほんの少しだけ首を傾げて、私に続きを促す。


「恐竜はやられてきてる。公表されてないだけで、もうずいぶんまずいとこまで侵食されてるのかもしれない。きっといつか突破される。きっと私たちの所もやられる。恐竜が今受けてる攻撃を、今度は私たちが受けるようになる。そしたら家も学校も街も全部潰されて、私たちもあんなふうに傷だらけになって、みんな」


 死ぬんだ、という言葉を、私は凪の髪の毛の中に放っていた。凪の腕が私の首の後ろに回されて、唐突にまとわり付いてくる凪のにおいに崩れ落ちそうになる。


「だから言ってるじゃん。今がラッキーでハッピーなんだって。これがなくなっちゃうこと心配してる暇があるなら、今をちゃんと生きようねってさ」


 それはいつもの凪の声だった。でも、空間を経ずに直接耳の中に流れ込むその声は、まっすぐ私の真ん中に響いて、震えて、発熱した。胸で鳴る鼓動が凪のものなのか私のものなのかわからなくて、ただそうすることでバランスを取るかのように、凪の背中に手を回した。


「私は志帆が好きだから、まだ死ぬわけにはいかないんだ。だから志帆にも、ちゃんと生きててもらわないと困るんだよ」


 後ろに回された手で、頭を撫でられる。私は頷く。こぼれそうになっていたものが、ゆっくりとこぼれていくのを感じた。それは、眠りに落ちるのと似ていた。受け止めてくれる底が優しく柔らかいことを知っているから、安心して身を任すことができる落下だった。


 私たちは傷ひとつないこの体で、今この瞬間にしかない幸せを謳歌するのだ。いつか壊れるかもしれない何かの上に構築された、すべてが嘘かもしれない地面の上に立って。






「よーし。綺麗さっぱり」


 消毒液の噴射作業を終え、手袋を外しながら凪が言う。私も、ふぅっと息を吐く。

 バイト終了の時間となり、道具の汚れを洗い流すため、外の水場に出た。


「ペコペコだ。なんか食べにいこ」

「いいよ、なにがいい?」

「んーわかんない、志帆決めて」


 ホース片手に、んー、と考えながら見上げると、出撃する恐竜が空を横切っていくところだった。大きく広げられた翼が陽を遮り、私たちの顔に影を落とす。

 翼を折った恐竜は、私たちの所には回されず、そのまま再生施設へと向かう。だから私は折れた翼を見たことがないのだけど、下から見上げるそれは悠々と風を切り、無敵にすら見えた。


「がんばれぇ!」


 と、凪が叫んだ。恐竜は振り返ることもなく、優雅な羽ばたきで空を進んだ。この先にある戦闘へと、またその巨体を投じるために。

 

 いくつかのそれらがすっかり小さくなるのを見送ってから、私は言う。


「決めたよ。ドーナツがいいな」


 搬入口の扉が開き、台車が新しい恐竜を運び込んできた。受け入れるために出てきた数人のために、私たちは道をあける。地面を擦る鎖の音と、時折声になる恐竜の咆哮。新たに補給される洗浄液のつんとしたにおい。私たちはその中を行き、排水溝の水溜まりを跳び越える。


「ドーナツね」


 おっけ、と凪は笑った。


〈了〉


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アロサウルスはまだ泣かない 古川 奏 @Mckinney

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