11 アパートの暗闇

 本の重さと比重することのないしこりを残したまま美咲と共に俺の家へと着いた。あたりは暗く、アパートの下までは街灯は照らしてくれない。おかげか、少し彼女の表情を汲み取りづらくなっている。俺は、茫然と彼女の顔を見る。

「どうしたの?上がろうよ」

 彼女は街灯の及ばないアパートの影の中から、美しい瞳をこちらに向ける。その瞳は少し街灯の影響を受けているのか、薄暗い緑色へと変色している。やけに透き通っているも、奥までは掴めない。彼女の本心が掴めない。

 俺は顔を逸らし、しばらくの間薄暗いコンクリート見つめる。俺の足元が夜に包まれていた。それは、朝のあの明るさとは違う、何かを失望させた感じの暗さだ。そう形容できればこれは夜ではないのかもしれない。ましてや、朝と思っていた、昼に思っていた、あれは違う何かかもしれない。

「ねぇ…薫君、早く登ろうよ。少し、冷えてきた」

 美咲に言われ気が付く。少し、肌に刺す冷たさが夜に現れてきた。

「そうだね。ごめん…上がろうか」

 靴を鈍く鳴らし階段へと足を向ける。美咲は高い音を鳴らして後ろに付いてくる。やけに、本が重く感じられる。それは、手が悴んでいるせいか。

 階段をいつものように歩こうとするも少しか上手く行かない。何故かいつも見ている階段とは訳が違う気がした。なんとも重苦しく長いようである。僅かに本で重くなっているだけだろうか。しかし、それはにかにも現実味を覚える。リアルだ。俺は階段をその重さに捕られながらも、しかし確実に段を上がっていく。

 後ろを向けば半ば首の折れた彼女が付いて来ており、その足取りは俺の足取りとはまるで合いはしなかった。顔は闇に落ちその表情は窺えない。しかし、口紅によって妖しく明るい唇はきゅっと結ばれていることはわかる。何をそんなに硬くなろうかと言わんばかりに本を持つその手は頑なに力が入っていた。依然として力は抜かないようであった。それは同時に、抜けない風にも見える。手を制御できているのかと問われれば、それは明確には、はい、とは言いづらい。それほどに、その小さな手は闇の中でもわかるように立体感を作り上げていた。

 足音が壁に反射し、反射し、反射する。光が乱反射するように俺たちを無遠慮に具現化させる。しかし、闇の中、夜から作られた影のなかでは形など具現化しても意味はないだろう。見ないのだからそれはきっと虚空である。形も見えない世界では虚空であると生物は自覚しなければならないだろう。皮肉にも、きっとそれは2人の心情にもあてはまっていることであろう。

 乾いた鈍い靴音の後には、ぴたりと音色の良い音がやってくる。きっと他者はそれをカップル、しかもいつも仲良しでラブラブのカップルであると認識するかもしれない。しかし、それは絶対的に他者であるときのみである。この2人、俺、薫と彼女、美咲にはなんら当てはまらないのだ。それは、アパートの中に潜む闇が密かに教えてくれることだろう。

 長い階段も終わりを迎え、2人は廊下へと足を進み入れる。重い足は依然、階段のときとは変わらない。それでも、足を前へと進めないといけないという焦燥で足がもつれそうになる。美咲は、規則正しく足音を鳴らし、横には本屋の袋を下げている。冷静であった。

 部屋のドアへと辿りつく。足音は止み、足元には涼しい風が通り過ぎる。一体、今の季節は何なのだろうか。俺の頭は、常温に晒された肌に、冷風に晒される足元に、そして無の温度に晒される心によってきっと混乱している。自分でも収集がつくないくらいにブルーだ。

 鍵を差し込み回される。開錠された音が空虚にアパートの一階に響き渡る。ドアを手前に引き、身体を後ろへと預ける。体重移動により扉は開かれる。中から、微香にだが彼の部屋だとわかる臭いが鼻腔を擽る。直後ろの彼女は彼の背中にピタリとくっつき、その場から動こうとはしなかった。足が心理的に固定され身動きがとれない。彼の背中には彼女の柔らかい乳房が押し当てられていた。

「ど、したの」

「怖い…この先に、入るのが…」

「なんで?何も怖いことなんて、無いんじゃないの?」

「なんで、私に聞くの?それは、一番薫君が分かってるじゃない…」

 それは当然の返事だ。この部屋の主は薫本人であった。しかし、何故彼女なんかに確認するのだろうか。俺の本心はもう何も分からなくなった。

 涙ぐむ彼女の声に俺は虚しい感覚を覚えずにはいられなかった。

「俺には何も無いよ…」

 また、嘘をついた。ウソツキ。?

「本当に…?もう、信じられなくなってくるよ」

 そう言って彼女はそっと彼から身を起こし、先に玄関へと足を踏み入れた。静かに腰を屈め、ヒールを脱ぎ、白いつま先をヒールから闇に移そうとする。細い脚を廊下に着地させた。静かな足音が彼から遠ざかっていく。知っている部屋の中に消えていっているはずなのに。それはまるで、知らない闇へと彼を誘っている様に思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る