ひつじ戦国伝

ひつじ

永禄の章

織田信長伝「雷霆の如く」

その昔、尾張国(現在の愛知県西部)には“うつけ者”と呼ばれた若殿がいた。若殿の名は、織田三郎信長おださぶろうのぶながといった。


ふつうの武士の平服というのは肩衣に長袴、そして腰には打刀と脇差を差している、といったところである。しかし、このうつけ者は違った。


髪は乱雑に後ろで束ねて、派手な色の着物は肌脱ぎをし、袴だなんて暑苦しいものは履いていられないらしく、ごわごわした動物の毛皮を用いた布を巻いただけ。見るからに奇抜な風貌であった。


とはいえ、そんなうつけ者でも尾張那古野城主の嫡男である以上、いずれお家を継ぐ者として傅役(教育係)をつけて厳しく育てられていた……はずであった。



それは、星一つない静まり返った夜。那古野城下のとある寺でこの日、うつけの父・織田信秀おだのぶひでの葬儀が厳かに営まれた。織田家の一門衆や譜代衆たちはすでに参列し、名君・信秀を悼んで涙を流した。

そんな悲壮な空間の中にいた老臣・平手政秀ひらてまさひでは、先ごろから悶々と外を見ていた。自らが傅役を務める若殿の姿が見受けられないのである。

「若、なにをしておられる…」


葬儀が始まってずいぶん立つというのに当の嫡男・信長が現れないとは不可思議なことである。そのうちまわりの重臣たちもことに気づき、ざわめきだした。


「若様、お父君の葬儀に来ないとはどうしたことだ…」


“うつけ者”と呼ばれる信長はたまにこうして突飛な行動をとる。また若のおふざけがはじまったか、と政秀が今日幾度目かのため息をこぼした時、突如としてすぱん、と襖が勢いよく開かれた。噂をすれば本人の登場である。


が、何を思ったのかこのうつけ者は礼装ではなく“いつもの格好”である。


彼を見るや否や、たちまち堂内がざわつき始める。

重臣たちは口々に何事かを囁きあっている。すべてが信長への非難や嘆息の声。それらは聞きたくなくとも政秀の耳まで入り込んできた。しかし、信長はそんなことにはお構い無しとばかりにすたすたと進み出て、経を読む坊主を押しのけて、信秀が眠る棺の前に仁王立ちした。そして声高に叫んだ。


「父上…遅参、御免なれ」


政秀は嫌な予感がした。はたして、その予感は的中する。

次の瞬間、信長は手も合わせずに抹香を仏前にばさっと投げつけ、さっさと退出してしまった。


まるで時間が止まったかのごとく、長い沈黙がお堂を包む。


「若、またこのような振る舞いをなさるか…!」

政秀はまたしても頭痛に悩まされることとなった。



この夜の信長の態度と、日頃からの”うつけ者”への批判、さらに品行方正にして利発で聡明な実弟・信行のぶゆきの方を正式な信秀の後継に推す声も相まって、家中には『あんなうつけなどは主君として仰ぐことはできぬ』という空気が蔓延し始めた。


そして、ついにこの年。

側近たちに唆された信行が乱を起こした。


こうした状況を憂いた数少ない一人が政秀であった。

政秀は、自分が尾張国を背負い立つ立派な武将になれ、と手塩にかけて育ててきた若者が“うつけ者”だと謗られるのが悔しかった。


どうか、目を覚ましてはくれないだろうか……。


政秀は“お説教”を試みた。



「若!お待ちください!若!」

政秀はばたばたと歩きながら、足を止めぬうつけを追いかける。

「なんなんだ、爺。俺はもう織田の当主なのだ、いい加減若呼びはやめろ」


政秀が那古野城屋敷の廊下でつかまえた信長は、今日も近隣で信行軍の反乱が起きているのにもかかわらず、この日もいつも通りである。どこから持ってきたのか蛙を手に乗せて遊んでいる。政秀の話を聞いているのかどうかもわからない。


「よいですか、その織田のご当主がいつもさような振る舞いをなさっては、下々の者たちに示しがつきませぬぞ!…それにひきかえ、信行様はそれはいつもご立派な様子だとか」

弟の名を聞いたうつけは、ぱたりと足を止めた。

「……ふむ」

「これでは信行様を持ち上げる者たちがますますつけ上がるだけでございます!お立場を自覚してくださらぬか、いつまでもうつけと呼ばれるのに甘んじておっては…」

政秀がそこまで言いかけた時、ふと信長は蛙を手から逃がした。

「…うつけ、か。悪くない」

「若!聞いておりましたか!?爺は…」

信長は、政秀をさえぎるように声を荒らげた。

「つまらぬ儀礼、くだらぬ伝統…そんなものに俺は縛られん!爺よ、俺は行くぞ。今日は津島つしまの方で祭りがある」

「若!お待ちを!おぉ、説教すら叶わんようになったか……。わしの育て方が誤っていたというのか…!大殿、相すみませぬ……」


これほど言い聞かせても、信長は考えを改めなかった。むしろ政秀には開き直っているようにすら見えた。

政秀は織田の家の未来をただ憂うことしかできなかった。政秀はすでに60歳を過ぎた高齢の身である。先はそう長くないだろう。もしもその時が訪れたら、信長はいったいどうするのか。

そんな時こそ、当主として責任を持ってくれるようになるだろうか。


頑固なのか、それとも真正の阿呆なのか、ついに政秀の説教すら右から左へ聞き流した信長だが、うつけと呼ばれながら過ごす日々は唐突に終わりを告げる。


天文22年(1553年)閏1月19日、平手政秀は「お諌めの」自刃をした。



尾張の大平原を、一頭の芦毛が雷霆のごとく駆けてゆく。

その手綱を握るのは、信長である。27歳になった彼は、すでにうつけの皮を脱ぎ捨て、立派な武将となっていた。

19歳の頃、政秀の死を悼んだ信長は、何かが取り憑いたかのように奇行を改めた。そして、信行をはじめとする国内の対抗勢力を瞬く間に制圧。本拠を清洲きよす城に移し、政治にも力を入れ、順調に領民の人気を集めていった。


今でも時々“変わった行動”をとることはあるが、とりたてて問題になることはなく、少年時代のうつけ者の顔は大方なりを潜めていた。今は遠乗りの真っ最中。愛馬の芦毛に跨り、風を切って進んでいく。


「殿〜!お待ちくだされ〜っ!!」


疾走する芦毛を追いかける鹿毛の若い侍は池田恒興いけだつねおき。信長の乳兄弟であり、近習の一人である。恒興が乗る鹿毛は力一杯、なんとか芦毛に追いつこうとするが、さすがは駿馬である、なかなか追いつけない。


すると、信長が突然馬を止め、結びつけていたひょうたんの水を呷るとぐいっと一気に飲み干した。ここで、恒興はようやく追いついた。


「はあっ、はあっ、殿っ…!何もこのような時にまで遠乗りに行かずともよいではありませぬか!今にも駿河の大軍勢がここに攻めてくるというのに…!」


“駿河の大軍勢”とはこの頃の尾張国の隣国・三河から遠江、駿河までを支配した名門今川氏のことである。折しもこの数日前には、今川義元が駿・遠・三の三国より2万5000あまりの兵力を動員し、尾張へ向け出陣したとの報が入っていた。すでに義元はこの時沓掛くつかけ鳴海なるみ・大高の三城を拠点として織田方の砦に睨みを利かせている頃合であった。

つまり、尾張織田家は危急存亡の状況にあるということだ。


「ふん、座して死を待つよりもどうせ死ぬなら少しでも体を動かした方が良いではないか。この方がよい策も浮かぶやもしれぬ」


信長は恒興の言葉を一蹴すると、袴のままずぼずぼと田んぼに足を踏み入れ、田植えをしていた農民の輪に入って世間話をはじめた。突然目の前に現れた殿様相手に民たちもたじたじである。


「殿ーっ!何をしておるのですかーっ」

こうなると恒興の声はもう届かない。


「はぁ…こういうところは昔から変わらないんだからなぁ…」

恒興はため息をついた。


ボォォォォォォン……


そのとき、城の方から法螺貝の音が聞こえてきた。兵士招集の合図である。

この音を聞いた信長の動きは素早かった。彼は目の色をガラリと変え芦毛に飛び乗り馬首を翻し、風のように走り去っていった。

恒興はひとり取り残されてしまった。


「法螺貝で城主を招集するとは、変な話だなぁ」


頭を掻きつつ、恒興はゆっくりと鹿毛の背中に腰を預けた。



清洲城に戻ってきた信長を城門のそばで待っていたのは、要所要所に飛ばしていた密偵たちである。彼らは芦毛に乗った男の姿を認めると、さっと近づき報告をはじめた。

「義元率いる本隊はおよそ2万5000、先刻沓掛城を進発した由!」

「別働隊を率いるは三河の松平元康、丸根砦・鷲津砦を攻める構え!」

「鷲津を守る織田秀敏様より、援軍の要請が届いております!」

信長はそのひとつひとつに頷きながら、厩へ向かった。そして、馬に水をやっていた世話係に声をかけた。

「そこの馬取」

「は、はっ!」

馬取の男は突然主君に呼びかけられ、声が裏返りながらも慌てて顔を上げた。

まだまだ年若いはずだが、その割にシワが多く、まるで猿のような面をしている。が、その顔はどこか愛嬌があった。

「お主、名をなんと申す」

「はーっ、中村の藤吉郎と申しまする!」

「よし、藤吉郎。お前は今から今川軍に潜り込み、わしに情報をよこせ」

藤吉郎は心底驚いた。それほど重大な任務をなぜ重臣に命じずに、自分のような下賤の者に命じるのだろう。とは思ったが、主君の名は解せずとも聞き返すのは無礼である。

「よいな、お主のような者だからこそ命じる。行けい」


藤吉郎は街道を走りながら、先ほどの信長の言葉を反芻していた。

“自分にだからこそ命じる”…。藤吉郎はこんな醜男ならば生きようが死のうが知ったことではないと言われたような気がして、少し傷心した。

しかし、信長には何か考えがあるのかもしれない。ならばこの機に手柄を立てて、いままで自分を散々罵った村の同朋どもを見返してやろう。藤吉郎はそう思うことにして気合いを入れ直した。


清洲城の大広間では、すでに重臣たちが檄を耳にして各々の領地からやってきていた。

柴田勝家、林秀貞、佐久間信盛、村井貞勝。織田家の古参の重臣たちが揃っていることが、重大な評定であることを物語っている。信長が姿を現わすと、一同は鞭を入れられた馬のようにぴしゃりと姿勢を正した。そこへ恒興もようやく戻ってくる。


全員が揃ったところで、秀貞が切り出す。

「さておのおの方、今川の大軍勢が尾張三河の国境にまで押し出してきたわけだが…いかなるお考えでござるかな」

すかさず、勝家がこぶしを掲げて応じる。

「援軍のない以上、籠城したところでいずれ力尽きるのは自明。斯くなる上は、総員城から討ち出でて義元へ斬りかかり、武士らしく死に花を咲かすのみ!」

そこへ信盛が負けじと反論する。

「柴田殿、兵力差をわかっておいでか?今川は我が方の数倍、討って出たところでろくな死に方はせんわ。ここで守りを固め、敵の兵糧が尽きるのを待つべきだ!」

筆頭家老たちの論争が引き金となって、評定の場は途端に紛糾した。

「馬鹿なことを申すな!このような平城で数倍の軍勢の攻囲には耐えられん!ずるずると自滅に向かうくらいならわしは討って出て死んでやるわい!」

「そうじゃ!こうなれば義元を討つ!」

「いいや、籠城だ!」

「そんなことよりわしは腹が減った!」


しばらく黙ってこのやり取りを聞いていた信長だったが、やがて大きなあくびを一つすると、すくっと立ち上がり、

「…くだらぬ」

とだけ言って、寝室に閉じこもってしまった。


呆気にとられる家臣たち。恒興もまた黙ってその場に座っていた。

「……なんたることだ!」

静寂を切り裂いたのは秀貞の怒声だった。

「あれを見よ。殿ご自身がすでに諦めてしまわれておる。この軍議がくだらぬのだそうだ。ああ、そうだとも!こんな軍議はくだらん!わしは帰る、あとは勝手にするがいい!」

秀貞がどすどす不機嫌そうに去っていくと、その後をぞろぞろと皆が続いていった。

最後まで残ったのは、勝家と恒興の二人だけだった。


ため息をついて、勝家がぽつりとこぼす。


「秀貞は己の命が惜しいだけであろう。あれに主君のために命を投げうって死ぬ気など毛頭ない。わしらの主君はそう簡単に諦めるお方ではないはずじゃ。わしらでは到底思いつかんことを平然となさる。そうでなくば、わしはここにはおらんだろう…。」


勝家は、かつて信長に謀反した信行付きの家老であった。その立場上、信長とは戦うことになったのだが、戦後信長は勝家を許した。その上、引き続き織田家に忠誠を尽くすよう求めたのである。本来、謀反人の側近ともなれば死罪になりそうなもの、だというのにである。

勝家はその大きな器に惚れた。それと同時に、この男はいずれ大きな夢を掴む、と思った。


恒興は晴れ晴れとした顔で頷いた。

「はい、拙者もそう思います。我らが殿はきっと何かお考えがあるに相違ありませぬ!」


信長を昔の“うつけ”のままだと思うものは去り、彼を信じる者が残った。

ふたりは評定の間に座ったまま、ただ信長がやってくるのを待った。



深夜。


長い兵士の行列が街道いっぱいを塞いで進んでいく。槍、弓、鉄砲。様々な武器を手にした足軽たちが尾張へと続く道を練り歩いてゆく。歩兵と騎馬が入り混じるその中に、ひと際豪華な輿があった。輿の簾からは時折ふたつの目がぎょろりと覗き、外の様子を伺っているようだった。


この男が東海の大大名・今川義元である。


その時、一騎の武者が義元の輿に近づいた。

「太守様、この先にあるは善照寺砦と中島砦、丹下砦にござる。いずれも籠城の構えとのことですが、いかに」

義元は武者の方も見ずに「踏みつぶせ」とだけ呟いた。



「はっはぁ、あれが今川さんの大行進だぎゃぁ」

高木に登って行軍を見守るのは、先ほどの藤吉郎。

「うはぁ、松明がキラキラしちょってて綺麗じゃのぅ〜!」

赤や橙色の光の列を目にして大興奮の藤吉郎に、下から「おーい」と声がかかる。

「なぁんじゃ、小六!今ええとこだで静かにしとってちょ!」

「お前、殿様から偵察に行ってこいって言われたからここにいるんだろう?その偵察兵が今川の軍勢に見とれててどうすんだよ!」

声をかけたのは普段から藤吉郎と行動を共にしている小六という男だった。

藤吉郎はうるさそうにしつつも、自分の任務を思い出し、今川軍の進む先を見つめる。闇夜を照らす炎の蛇の鼻先にあるのは確か…小高い丘だ。農民というのは、武士よりも割と地域の地理に詳しいものだ。

「おぉい小六!あっちにあるのは丘だったけぇ?」

「…そうだなぁ、確か…桶狭間山って言ったか?」

「なんやて?山なのに狭間っちゅうんかい」

「知らねえよ、ンなこたぁ…とにかく後を追いかけようぜ!」

ふたりは木から飛び降り、すばしっこく大行列を追いかけていった。



信長がカッと目を見開くと、まだ夜は明けていなかった。季節の割に冷え冷えとした空気が信長の頬を撫でる。

外は薄暗い。まだ起きるには早いだろう。もう一眠りして戦に備えねば。


……戦。


信長は布団をはねのけて寝室を飛び出した。


台所に駆け込んで湯漬けを用意するよう侍女に命じると、今度は小姓を呼び出して具足を身につけ、戦烏帽子を被った。太刀もしっかり研いである。刀身にきらりと自分の顔が映った。

やがて、寝ぼけ眼の先ほどの侍女が湯漬けを持ってくる。信長はそれをひったくると立ったまま一息にかき込んだ。


人間五十年


下天の内をくらぶれば


夢幻のごとくなり


一度生を得て


滅せぬもののあるべきか


信長が好んだ『敦盛』の一節をひとしきり舞うと、たったひとりで歩き出した。

途中、昼間の評定の間を通りかかる。すると。

「ついに出陣ですか、殿!」

「この柴田、どこまでも共に参りますぞ!」

恒興と勝家がすでに戦支度を整えて待っていた。


「…大儀。行くぞ」


まだ夜が明けきらぬうちに、信長は恒興と勝家に加え、5人の近習とともに清洲城を進発した。


信長は芦毛に跨って、ただひた駆ける。続く7人の騎馬武者も後を追う。

そして、一同は清洲から南へ三里、熱田神宮までやってきた。信長はここで戦勝祈願をする。当然、たった8人で戦はできないので、ここで続いてやってくる兵たちを待つためでもあった。


遅れて数百人規模の小軍勢が姿を現した。佐久間信盛と清洲城の残りの兵である。


「拙者が間違っておりました!思慮が足らず、面目次第もございませぬ!」

「…さようなことはよい、行くぞ」

「は、それが、先ほど清洲に早馬が参り、丸根砦と鷲津砦が陥落し、守兵は全滅したと…」

突然もたらされた凶報に一同は愕然としたが、ただひとり、信長は眉ひとつ動かさず一切動じる様子を見せなかった。


すると突然どこかで聞いたような声がした。見ると声の主は…猿。いや、藤吉郎だ。


「ああっ、殿さま!ようやく見つけましたわ!桶狭間っ!今川義元は、桶狭間山に陣を張っとりますゥッ!」

「なんだ!?喋る猿か!」

ひとり混乱する勝家をよそに、信長は藤吉郎に「…大儀。」とだけを言い、懐から小刀を取り出し、彼の手に放り投げた。褒美、ということである。


そして芦毛を皆の前に進ませ、太刀を閃めかせ、檄を飛ばした。


「敵は丸根と鷲津の奮戦を前に疲弊している。こちらは新手じゃ。少数といえど精鋭、多数の敵を恐れるな!運は天にあり!敵に押されたら退け、敵が退かば追い落とせ!敵は討ち捨てにせよ!」

甲高い怒号と共に、雷が鳴り響き、突如として視界を遮るほどの大雨が降り出した。これほど強い雨の中なら、敵に気付かれず接近することができる。馬蹄の音すらも義元には聞こえまい。信長は、この雨が熱田神宮の加護だと思った。


「狙うは義元が首、ただひとつ!!」


喊声とともに先ほどの数倍の織田軍が、運命の地・桶狭間へ向け走り出した。



何とも強い雨であった。滝のような雨が収まり、東の空が白む頃、義元は陣幕の外へ出てきた。

ここは桶狭間山の頂に拵えられた今川軍の本陣。あまりの暴風に、大木までもが抉られて倒れている。


数刻前に、別働隊を率いる松平元康から前衛の砦を落としたとの報せが届き、本陣は湧き上がった。どこから持ち出してきたのか、誰かが酒を差し入れたようで、皆は飲めや歌えやの大騒ぎであった。

うつけの首を取ったわけでもあるまいし、気が早すぎる…。とは思ったがやはり酒を前に体は言うことを聞かず、義元は家臣の酌を受けてしまった。


不覚にも、床几で少し眠ってしまっていたようだ。頭痛がする。胸のあたりも灼けて不快だ。

「…さて、進むか」

義元が陣幕の奥に戻ろうとした時、それは視界に入ってきた。


「義元…見つけたり!すわ、かかれッ!」


真正面から木瓜の紋をあしらった旗を背負った騎馬武者の集団が駆けてきた。先頭を駆ける男が…信長なのだろうか。

義元はなぜかそう直感した。

「織田軍だと……!?馬鹿な、物見は何をしていたのだ」

先ほどの暴風雨。この程度の少数ならば姿も音もわからない…そういうことなのだろうか。


織田軍の奇襲にようやく気がついた今川兵が陣幕の外に次々と出てこれを迎撃する。

しかし、その誰もが酒が回っている。数合斬り結ぶが、不甲斐ないことにあっさりと崩れ落ちてゆく。


「…馬鹿な」

再び同じ言葉が無意識に口から漏れた。


「我こそは津島衆筆頭・服部一忠!義元公、御首頂戴仕るっ!」

刹那、喊声を若武者の名乗りが切り裂き、次の瞬間義元の脇腹に衝撃が走る。


鉢巻き姿の男が目に映る。

(この程度ならば…)

義元は男の太刀をぐいっと引き寄せ、よろけた男の手に噛み付いた。若武者はもんどり打って倒れた。

義元は、遠くで今川兵を次々と斬り倒してゆく馬上の武将をもう一度見た。


どうやらこの男を甘く見過ぎたらしい。取るに足らぬ小さな敵ではなかったのだ。

天は、信長に味方したということか。


「貴様が……信長……なのか!」


背中から鳩尾にかけてを、熱く鋭い鉄が貫いた。全身から全ての力が抜けるのがわかる。

視線を下げると、赤黒くなった穂先が見えた。


「太守様ァァァァァッ!!」


義元を救おうと、近習たちが殺到する。

薄れゆく意識の中、今川家の赤鳥紋の旗が次々と倒れ、木瓜の旗が増えていくのが見えた。


「……あっけない…よもや貴様に、負けるとは、な……」


そこで、義元の意識は終わった。



「今川義元、毛利新助が討ち取ったりィー!」


無我夢中になって馬上で太刀を振り回していた信長は、どこかからかそんな声を聞いた。それを皮切りに、戦況は今川兵が我先にと逃亡を始め、織田軍がそれを追撃する形となった。


大逆転勝利。まさにそう呼ぶにふさわしい戦であった。


信長は、空を仰いだ。嵐が去った後の清々しい空。太陽に太刀を翳してみる。辺りを見れば、光が水たまりを照らし、至る所に綺麗な鏡ができていた。

「…安心して逝くがよい、義元。見ておれ…貴様の業も夢も、この信長が継いで見せるわ」


尾張の風雲児・織田信長は、力強く馬首を翻した。

彼の愛馬はヒヒン、と嘶き、桶狭間への道よりもさらに速く駆けていった。


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