第9話

「神野緋鞠……貴様! また何をやらかした!?」

「えっ? えっ?」


 バーン! っと叩きつけられるようにオープンテラスの扉が開く。

 飛び込んできたのは唖雅沙だった。緋鞠の肩をつかんでぐらぐら揺らす唖雅沙の朱色の瞳が、怒りに満ちている。


「な、何かの間違いでは!?」

「ほう……しらばっくれるか? なら証拠を見せてやる!」


 目の前に出されたのは、瑠衣が提示した模擬戦についての書類だった。

 緋鞠は頰をぴくりと引きつらせる。


「そ、それは……」

「覚えがあるな?」

「……はい」


 認めると、唖雅沙がにやあっと笑った。緋鞠もへらりと笑うと、唖雅沙から逃げ出した。

 丸まって寝ていた銀狼も慌てたように飛び起き、緋鞠を追いかける。


「貴様はなぜ、問題ばかり起こすんだ!?」

「好きで起こしてるんじゃなーい!!」


 あっという間に捕まった。緋鞠を助けようとした銀狼共々、小脇に抱えられ、元の位置に戻らされる。


 さっきまでのシリアスな雰囲気がぶち壊しである。松曜をうかがうも、さっきの続きを話す気はなさそうだ。


「唖雅沙くん、いったいなにがあったんですか?」

「松曜さま、聞いてください」


 唖雅沙が事情を話すと、松曜は楽しげに笑った。

 緋鞠は身を縮めながら、新しく淹れられた紅茶に口をつけた。


「君は楽しい子ですねぇ」

「うぅ……好きでやってるわけじゃありません」

「しかし、蓮条の令嬢と剣崎の令息ですか。唖雅沙くん、両家は婚姻を結んでいませんでしたか?」


 ぶはっ!!


「何をしとるか、貴様は!!」

「いやいやいや」


 唖雅沙に手渡されたハンカチで、噴き出した紅茶に濡れた顔を拭く。


じゃなくて?」

「阿呆、だ。婚姻の約束のことだ」

「だ、だって……」


 ――あんなに仲が悪いのに!?


 緋鞠が何が言いたいのか察した松曜は、苦笑いを浮かべる。


「俗に言う政略結婚ですね。この世界ではそう珍しくないですよ。強い血を残していくことは必要なことですから」

「この歳で?」

「名家になれば、生まれた瞬間に婚約者が決まるなど珍しくもないことだ」


 あまりにも世界が違い過ぎて、緋鞠の気が遠くなった。

 別に運命の相手がいいとか、メルヘンなこと言うつもりはないけれど――。


「そういえば、私の孫息子が貴女の一つ上にいるんですよ」

「へぇ」


 わりと歳が近いんだなぁ、と思いながら、マカロンに手を伸ばした。


「まだ誰とも婚姻を結んでいないんですよ」

「そうなんですか」


 松曜の孫であれば、血筋は確かだろうし、引く手あまただろう。

 他人事のように返事をし、ふたつめのマカロンに手を伸ばす。


「どうです?」

「とっても美味しい……」

「緋鞠さんの婚約者に」


 どんがらがっしゃーん! !


 松曜以外が椅子から転げ落ちた。とんでも発言をした松曜は、不思議そうな顔をしている。


「松曜さま!? 何をおっしゃっているのですか!?」

「無名の緋鞠さんが大和でやっていくのは大変ですよ? 我が家の家名を使えば、少しは生きやすくなるでしょう?」

『ふざけるな! 誰がお坊っちゃんなど!』

「大丈夫ですよ。ひとり暮らしをできる程度の常識と生活力は身につけていますからね」

「なっ、なんで私なんですか!?」

「緋鞠さんは素敵なお嬢さんですし、きっとあの子も気に入ります。可愛い系が好みらしいので、ぴったりです」


(このおじいちゃん、ヤバい)


 これ以上ここにいたら、本気で婚姻を結ばれかねない。


「あっ、急に用事を思い出しました!」

『いっ、急いで帰らねばな!!』

「そうなんですか?」

「はい、ごちそうさまでした」


 しょぼんと落ち込む姿を見ても、緋鞠には罪悪感ひとつ感じない。下手をすると緋鞠の人生まるっと持っていかれそうな恐ろしさがある。

 銀狼を伴い、オープンテラスの扉に手を伸ばす。


「――誰か、好きな人でもいるんですか?」

「っ!」


 思わず足を止めた。

 

 恋なんて考えたこともない。

 緋鞠にとって、一番の願いは兄との再会だ。


 ――ずっとそれだけのために生きてきたのだから。


 振り返ろうとした拍子に、首にかけたペンダントがしゃらんっと鳴った。


『ひとりは無理でも、ふたりならきっと……』


 幼い頃に交わした、約束の指切り。

 大事な、もう一つの約束。


『緋鞠……?』


 銀狼に呼びかけられ、我に返る。制服の上からペンダントを握りしめた。


 緋鞠は松曜の目をまっすぐ見つめた。


「……忘れられない人なら、います」


 名も知らない、はっきりと顔も思い出せないあの子。

 泣いている緋鞠に手を差し出してくれた優しい少年。出来ることならまた会いたい。


 けれども、願いはひとつと決めた。

 ふたつの願いを追えるほど、自身が器用でもないことはわかっている。


 緋鞠はその場をあとにした。

 瞳の緋色は沈む夕日のように、寂しげに揺れていた。

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