辿り着けない海

「ねえ王様。海ってなに?」


 少し年長の、読書が好きな子供に問いかけられて、王様は口をポカンと開けた。


「え、うみ? なにそれ?」

「ほら見て、ここに書いてあるでしょ。海って」

「……ニック!」


 海、という文字を見て王様はしばし考え込んでいたが、くるりと振り向くと大声でニックを呼ぶ。


「お呼びですか」


 ニックが慌てて駆けつけてきた。王様の声の大きさに驚いて、子供たちもぞろぞろ集まってくる。


「海ってなに!?」


 深刻な表情を浮かべた王様の口からそんな言葉が出てきて、ニックは一瞬フリーズした。


「は?」

「この子の持ってるこの本のここ! ほら、海って書いてあるだろ? 海ってなんのこと?」

「そんなどうでもいいことのためにあんな大声で呼んだんですか……?」

「どうでもよくないよっ!」


 頰を膨らませて怒る王様をなだめながら、ニックが海について説明する。どこまでも広がる水たまり。その水はしょっぱくて、色々な生き物が暮らしている。


「魚もいますし、タコとかイカとかもいます。王様はクラゲが好きそうですよね」

「タコ? それってどういう生き物?」

「赤くてぐねぐねしてて足が八本ある生き物です」


 ニックに言われて、王様はふむふむ、と頷きながら白い紙に絵を描き始めた。


「赤くてー、ぐねぐねしててー、足が八本。こんな感じ?」


 えっへん、と言わんばかりに差し出された紙を見て、ニックは危うく失神するところだった。そこには赤くてぐねぐねした八本の人間の足の塊が描かれていたのだ。


「ぎゃー!?」

「タコこわーい!?」

「うみってこわいところなんだね……!?」

「ぼくぜったいいかない!」


 一瞬にして教会が阿鼻叫喚の地獄と化す。


「えー、そんなことないと思うよ? いつかみんなで行こうよ、海。きっと楽しいよ!」


 王様はうっとりとしながら子供たちを誘うけれど、みんな首を振って泣き叫ぶ。


「あー、ほらみんな落ち着いて! あんな生き物はいないから大丈夫! ほら、ご覧。海にはこんなキラキラのお魚がいるんだよ」


 ニックが急いで紙に色とりどりの魚の絵を描いた。幼い頃に見た遠い記憶の中の海を、必死で思い出しながら。


「ニックのおさかなさんかわいいー!」

「ほんとだー!」

「おともだちになれるかなあ?」

「なれるよ、きっと。さあ、どんなお魚と仲良くなりたいか、想像して描いてごらん」


 子供たちが、白紙の上に思い思いの魚を描いていく。大きいもの、小さいもの、虹色のものから真っ黒なものまでたくさん。


「あはは、僕らの海はとっても賑やかだね!」


 真っ青に塗った紙の上にみんなの描いた魚の絵を貼り付けて、王様は楽しそうに笑った。


「ねえねえおうさま、いつかみんなでうみにいこうね!」

「いきたい!」

「やくそくだよ!」


 王様はそんな子供たちに頷いてみせる。その笑顔が泣きそうに見えたのはきっとニックだけだろう。スラムから海は信じられないほどに遠い。決して行ける日は来ないと、ニックと王様だけが分かっていたから。


「そうだね。いつか、海に行けたらいいね」


 そんな呟きは、まるで祈りのように教会に響いて消えた。




 その夜、ニックは海辺で赤くてぐねぐねした八本の人間の足の塊に追いかけられる夢を見て目が覚めたのだった。

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緋色の王様は赤りんごがお好き 三上 エル @Mikamieru_8

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