Part3 あやちゃん
「行って来まぁす」
と、家を出るのは、七時四〇分くらいだ。
その頃には、父さんは道場の掃除やジムの器具の点検、備え付けの事務室で書類の整理などを行なっており、それから母屋には昼まで戻って来ない。
母さんはコーヒーを飲みながら、朝のニュース番組をチェックしている。俺を送り出してから、戸締りをして職場へ出掛ける事になっていた。
鞄を袈裟懸けにして家を出ると、ひゅぅ、と吹き付ける風が頬を撫でた。秋も深まっている、かなり冷たい風だったが、学ランの上にもう一枚羽織る程ではない。ただ、そろそろコタツには布団を付けても良い頃だろう。
俺は両手をズボンのポケットに入れて、学校へ向かった。
俺の家は大通りから一本裏に入った閑静な住宅街にある。家と家の間隔が結構空いており、隙間風が通るような印象だ。
家の向かいには古ぼけたタバコ屋があるのだが、登下校の時刻にはシャッターが閉まっているので、どんな人がそこで商売をやっているのか分からない。
大通りに合流するまで、五分ばかり掛かる。その間、最近移転して来た洋菓子店や豆腐屋さん、算盤教室などを横目に見つつ、歩いていた。
車線が増えた通りにぶつかると、横断歩道の向かいには教会が建っている。その隣には祠があった。神仏習合ってやつだね、と得意げに話したら、
“どっちも神さまだよ”
と、言われたのを良く覚えている。
歩行者用の信号機が変わると、俺は反対側に渡って、道なりに真っ直ぐ進んだ。
俺が通う
そんな風に考えながら歩いていると、
「サクちゃん!」
と、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、その牡丹坂高校の制服を着た女の人が、駆けて来る所であった。
「おはよう、サクちゃん!」
「おはよう……御座います。あや……
「あはははっ、やっぱりそれ、似合わないよぅ。前みたいにあやちゃんで良いんだから」
俺の隣に並んだのは、布川あやかさん。
黒髪を肩まで垂らし、前髪を眉のすぐ上できっちりと揃えている。切れ長の眼は優しく垂れており、唇にはいつも緩いV字の笑みを湛えていた。
小柄な俺よりも頭半分くらい大きく、すらりと長い脚が膝上五センチのスカートから伸びていた。健康的なピンク色の膝小僧の下までを、眩しいハイソックスで覆っている。
ブレザーの生地は見た目より厚手の筈だが、胸元がぐっと突き出しており、ブラウスの襟を飾るリボンが、ちょっとした拍子で弾け飛んでしまいそうだ。
布川先輩……もとい、あやちゃんとは、小学生の頃からの付き合いだ。
小学校のレクレーション大会か何かで知り合った。
小学二年生当時、俺は今にも増して病弱で、体育は殆ど見学していた。運動会とは別にある校内規模のスポーツ交流会でもそうだったのだが、この時、独りで大会を見学していた俺に、五年生だったあやちゃんが声を掛けてくれたのだった。
その後で、あやちゃんの家が俺の家と近い事を知り、学校で良く会うようになった。と言っても四六時中一緒にいたという事もなく、顔を合わせれば挨拶をして、ちょっと話すくらいの関係だ。
しかし友達を余り作らなかった俺としては、それだけで充分、仲の良い友人という事になる。
特に、図書室で同席する事が多かった。昼休みや放課後、図書室へゆくとあやちゃんは何やらノートと教科書に真剣な表情で向かい合っており、俺はその隣で本を読んでいた。チャイムが鳴ると片付けを手伝って、それぞれの教室へ移動する。
あやちゃんが卒業してからは、同じ校舎でいる事はなくなってしまったのだが、多少は交流が続いていた。こうして朝、学校へ向かっていると、商店街の入り口までは同じ道を使うので出会う事も多いのだ。
「今日は何の授業があるんだっけ?」
「えーと、今日は数学と国語……英語に」
「あー、三教科全部ある時間割だ! 移動教室もなくて大変でしょう」
「そうなんだよ! あやちゃんは?」
「今日はねー、五、六時間目が体育なんだぁ、バレーボール。でも一時間目から世界史なんだよね、担当がすぐ怒るオバサン先生でね、嫌になっちゃう。……あ、こんな事、言っちゃいけないね」
「高校でもいるんだ、そんな人。うちは理科の先生」
「あ、池水先生でしょ? まだそんな風に怒ってるのねぇ」
「でもあやちゃんは頭良いから、怒られたりはしないんじゃないの」
「んー……まぁ、そうなんだけどね」
「羨ましいなぁ、あやちゃんは勉強も出来て運動も得意だし……」
俺だって、別にそこまで勉強が駄目な訳じゃない。けれども、本当に頭が良い人間と比べたら全然だし、一日でも授業を聴かないでいたらすぐに付いていけなくなるくらい、綱渡りのような成績だ。
だから、そこそこ勉強しているとは言え、常に学力のトップを保っているらしい上、部活でも優秀な成績を残しているというあやちゃんとは、比べものにならなかった。
体育に関しては、これと言った持病がある訳ではないものの身体が弱く、周りよりも数段劣ってしまう。これは仕方のない事だと思う。だが、頭の回転でも突出した点がないという事を考えると、俺はあやちゃんのような文武両道の人と顔を合わせている事に、申し訳なくなってしまう。
歳の離れた友人として接する事に関して、俺はあやちゃんに対する躊躇いは持っていない。けれど、優等生の布川先輩と、半分くらい落ちこぼれの妄想家である飛鳥朔耶という立場から見てみると、そこに劣等感を挟まずにはいられないのだった。
俺が、それまで当たり前のように使っていた“あやちゃん”から、“布川先輩”という呼び方に変えようとしたのは、中学に入って明確な上下関係を学び始めたというのもある。
そしてそれ以上に、どんぐりの背比べであった小学校から、優劣がはっきりと分かる中学校へ進学して、自分と彼女との力量の相違を、はっきりと理解するようになったという理由もあった。
あやちゃんは気にしないで良いというのだが――そしてそれに甘えさせて貰っているが――、どうしても心の隅では、気に掛けずにいられない。又、あやちゃんがそう言えてしまえるのは、彼女が俺と違って自分の実力に自信を持ち、更に他人からも認められているからだ。
そういう人間は、概して妄想以上のものを持たない凡人のコンプレックスなど、分かり得ないものなのだ。
「そう言えば、サクちゃんは進路って決めてる?」
「進路? 中学卒業したらの? まだ気が早くないかな」
「そんな事ないわよぅ。意外とあっという間なんだから、三年間は」
「――」
「高校は行くんでしょう? やっぱり牡丹坂?」
「あそこのテストは簡単だって聞くけど……」
牡丹坂高校の入学試験は、名前さえ書いていれば小学生でも受かると有名だ。とは言え、そんな学校でもトップになるという事はそう容易くはないだろうし、その分運動部が優秀であるのだからあやちゃんの能力が貶められるという事はない。
「それとも、他に何か、やりたい事があるのかな?」
「――」
そこはかとなく、期待のようなものを込めた眼で、あやちゃんが俺を見る。
そんな顔をされても、俺はまだ進路なんて……ここから先、自分が歩く事になる未来なんて、考えた事はなかった。
妄想の達人は、実現不可能な事を描き出すのは得意だが、自分がどれだけの力を持って何を成し得るかを想像するのは、苦手なのだった。
「――あ」
俺はあやちゃんの眼から逃れるように、空に走った光の筋を見上げた。
「流れ星……」
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