Part2 俺の妄想物語
朝、俺が眼を覚ますのは、寝るのが早いという事もあって、大体四時半から五時の間である。
朝食は、六時頃と決まっている。母さんが用意をして、片付け、仕事へゆく準備をする、それに丁度良い時間だからである。
だから起床から食事までの一時間半から二時間、俺は勉強机に向かっているが、しかし教科書やノートは開いていない。
手にシャーペンこそ握っているが、その先端が向くのは罫線もない真っ新なコピー用紙である。
B5サイズの白紙の上に、鉛の芯が踊る。
出来上がるのは、俺の妄想物語に登場する主人公たちだ。
小学生の頃から、木の机の模様が紡ぐ物語に心躍らせた俺だが、そうした想像上の物語には、既に本となって出版されているものや、ビデオになって販売されていたりする動画などにはない欠点がある。それは、繰り返し味わう事が出来ないという事だ。
その諸行無常さこそが侘び寂びであると言われればそれまでだが、日々、何種類もの妄想に耽る俺にとって、前回の続きが思い出せない事はままある事であった。
そんな俺だったけど、本に限らず創作物には
つまり、俺も紙とペンがあれば、俺の心に浮かぶに留まっていたものを、俺のこの眼で実際に見る事が可能になるのではないだろうか。
それに気付いてから、俺はこうして紙に向かって、机の模様に浮かび上がるキャラクターたちを描き込んでいる。
今日、そこに生まれ落ちたのは、不思議な獣だった。
犬や猫のような、四足歩行の動物の身体を持っている。
その各所から、あちこちに向かって刃物のような棘が突き出しているのだ。
頭部は重力に逆らうよう上方へ向かう。
せり出した顎にも棘が生えていた。
上顎がそこに被さっている。
眼はひし形を薄く伸ばした感じだ。
多分、皮膚の感触は鉄っぽい冷たさを孕んでいる。
後頭部から女のように髪が伸びている。毛先が、筋肉を持っているように浮かび上がっていた。
背中に翼が生えている。鳥のようなものではなく、蝙蝠のように骨組みに張られた膜状の翼だ。
太い尻尾は、うねるように曲がり、先端は二股に分かれ、その間から毒液が滴っていた。
毎日毎朝、俺は右手の小指側が真っ黒になるまで、そうやって戯れていた。紙とペンと妄想力とが、俺の友達だ。
やがて、開けっ放しの窓から朝陽が射し込んでいる事に気付き、時計を見る。妄想に耽るのは良いが、それでスケジュールを乱すような事があるのならば、それは妄想の素人だ。俺は妄想の達人だから、そんな事はしない。
俺は、背の高い本棚に囲まれた部屋から出て、階段を下りてリビングへ向かう。
俺の住んでいるのは、二階建ての住宅だ。一階はリビングとバスルーム、両親の寝室と、母の書斎になっており、俺の部屋は車が一台停まったガレージの上にある。この母屋の隣に空手道場が建てられていた。
階段を下りると、廊下が左右に伸びている。左へゆけばバスルームで、右へ進めば玄関だ。玄関までゆく途中の壁の左手に引き戸があり、こちらがリビングになっていた。
「おはよー」
「おはよう、サク。顔は洗った?」
俺がやって来たのに気付いた母さんは、フライパンを握りながら俺に言った。
「まだ……」
「早く顔洗って、着替えちゃいなさい」
「はぁい」
リビングに入ると、玄関と同じ方向に掃き出し窓があり、庭――と言ってもラジオ体操でもするのが関の山の広さ――に臨むベランダがある。壁際にテレビが置かれ、手前に布団を取り外せるコタツが置かれていた。ダイニングテーブルもあるが、食事はコタツの方でする。
その反対側はカウンターで仕切られて、キッチンになっていた。
俺はリビングからバスルーム手前の脱衣室へ向かう。脱衣室のハンガーラックには制服が引っ掛けられていて、洗濯かごにはしっかりと折り畳まれた下着が揃っている。
俺はパジャマを脱いで洗濯機に入れ、水道で顔を洗い、ズボンとワイシャツを身に着けた。
進学当時は毎日小さなボタンを填める習慣を手間だと感じだが、衣替えで冬服に戻る頃になればすっかり手馴れていた。
学ランは玄関のコート掛けに、母さんの上着や父さんのコートと一緒に引っ掛かっている。
着替えを終えてリビングに戻ると、丁度、父さんがランニングから帰って来る所であった。空手を教えているだけあって体格ががっちりとしている。皮膚も浅黒く焼けており、小柄で色白の俺と比べると本当に親子なのか怪しいくらいだ。
「お帰り、父さん」
「ん……。今日も早起きだな」
玄関でスニーカーを脱いだ父さんは、頸に掛けたタオルで、皺が並んだ額の汗を拭った。その足元にはいっぱいになったゴミ袋が置かれている。ランニングがてらに地域のゴミを拾うのが、父さんの日課になっていた。
父さんは俺とすれ違うようにして、バスルームへ向かった。筋肉の厚みが違う。廊下は俺と父さんくらいなら余裕で並んで歩けるが、それでも俺は自然と道を開けてしまった。父の身体が放つ威圧感というものの所為だろうか。
リビングに戻ると、布団を外したコタツのテーブルには今朝の主菜が並んでいた。今日は鮭のムニエルと、ほうれん草の胡麻和えだ。キッチンから漂う匂いから察するに、味噌汁は豆腐とネギだ。
俺はキッチンに行って、炊飯器からご飯を盛り付けた。母さんがお茶碗につけた味噌汁をお盆に乗せて食卓まで運んでゆくと、ざっと汗を流した父さんが戻って来た。
コタツの三辺にそれぞれ座って、自然と飯を食べ始める。
「頂きます」
と言う父さんに合わせて、
「頂きます」
俺と母さんも続けて、手を合わせた。
俺は味噌汁からさいの目切りになった豆腐を一つ取り、口に運んだ。ネギと味噌の香りの混じった、ちょっと濃い味付けがうちの料理の特徴だ。
ご飯をその豆腐と同じくらいの量抓んで、口に入れる。やはりほうれん草も同じ量を口に含んだ。これを咀嚼している間に鮭を箸でほぐし、口のものを嚥下し終わるとご飯と、同じくらいの鮭の身を口にやった。
父さんは、初めに味噌汁を半分くらいまで飲んでから、ご飯を食べ始める。小食という訳ではないものの咽喉が細いので細かくペーストしないと飲み込めない俺より、一口一口が大きく、ずっと早く食べ終わってしまう。
鮭の身を皮から全部剥ぎ取り、幾つかの破片にしてしまうもこれが大雑把で、口に含んだ切り身から左手で骨を抜き取って、皿のふちに並べていた。
母さんはほうれん草から喰っている。副菜と言うよりは前菜という様子で胡麻和えをやっつけると、味噌汁を流し込んで口の中を洗うみたいにした。それから父さんより器用に細かく鮭の身をほぐし、骨を取り除いてから食べた。
食べている間は、無言だった。
テレビも点けていない。
食器の音以外は、家の前の道路を走る、五分に二、三台の車の音が、掃き出し窓を微細に振動させるくらいだ。
最初に父さんが食べ終わった。
俺と母さんは、同じくらいに食器を空にしたが、その間に父さんは自分の食器をキッチンに持って行っている。
「サク、早く歯を洗って、学校へ行く準備しなさァい」
母さんが俺の食器をお盆に乗せて、言った。
「昨日の夜、したよ」
「貴方はおっちょこちょいなんだから、忘れものがあったらいけないでしょ!」
「ちぇ、信用ねぇなぁ」
と、悪態を吐いてみるものの、想像力豊かなこの俺は一方で心配性の気もあって、昨夜は通学鞄に入れたものが今朝にはなくなっているのではないかという不安に襲われる事もある。
そんな訳で俺は、自室に上がって鞄の中身をチェックし、これを持ってリビングに下りて来ると、その後でバスルームまで引き返して洗面所で歯を磨くのであった。
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