サイドストーリー
残された人たち 前半
0 ブリギット、兄エサル公の怒りに相対(あいたい)す
あの嵐の夜の、翌昼のことである。
トールドルン家の女家長であるブリギットは、王都ではめずらしいコーヒーの香りを楽しみつつ書類などあらためているところで、来客を告げられた。来訪は予想していたので、彼女は落ちついて兄をむかえた。
「
ブリギットの説明を聞いた、エサルの第一声である。「デイミオンめ、あの恥知らずの毒虫が、ただではすまさんぞ!」
足を踏み鳴らして
昨晩は、トールドルン家にとっても嵐の一夜となった。跡取り娘のフランシェスカのもとに、王妃として彼女を求める王がやってくるはずの喜ばしい夜。王は約束どおりやっては来たが、契約書を確認しただけで、そのまま妻の待つ王城へと舞い戻ったのだ。
それだけでなく、翌朝まだ暗いうちに慌ただしく王城へ出ていく娘に、これはただごとではないとブリギットも悟った。事情はその後〈呼ばい〉で聞くことになり、今にいたる。
「まあ、落ち着いたらいかが。コーヒーでもお飲みになって」そう声をかけると、兄はカッと目を見開いた。
「これが落ちついていられるか! ……かわいい姪の顔に泥を塗られたんだぞ――」
言いかけたエサルは、ようやく気づいたように首をめぐらせた。「あの子はどこにいるんだ?」
「王城ですよ」ブリギットはコーヒーをすすりながら優雅に答えた。「陛下から、仮の王太子役を任されたのです」
「はァ?」
エサルは中途半端な姿勢のまま、妹のほうへ顔を向けた。「なんでそんなものを引き受けるんだ、義理もないのに」
「ですが、あなたがお引き受けになったんじゃありませんか。リアナ王配との取引で」
「あの子を王配にするという保証と引き換えだ!」エサルは強調した。「『王太子』などと言ったって、〈血の呼ばい〉がなければ、王にはなれないんだぞ。メリットもなしに、体のいい雑用係じゃないか」
「別に強制されたわけではありませんよ。陛下がお願いされ、フラニーが受けた。成人した娘の決断に口は出しますまい」と、ブリギット。
「あの子の人の良さにつけこまれてるんだぞ! リアナ王配の入れ知恵に決まっている。あの女は、それは頭がまわるんだ」と、エサルは憎々しげに言った。
「ほかならぬあなたを出し抜いたのだから、そうかもしれませんね」ブリギットは賛同した。「だとすれば、フラニーもまだまだ成長の余地があるということでしょう」
そう声をかけると、エサルは一発やりこめられたような、悔しそうな顔になった。
「どうも我慢ならん。城に顔を出してくる」
そして、
♢♦♢
「公はずいぶんお怒りだったね」
ポットを運んできた夫が、部屋に入るなりそう言った。「もう行ってしまわれたのか。新しい
「まあ、兄はあれが仕事ですからね」ブリギットは肩をすくめた。「フラニーは一族の娘ですから、不利な条件を黙ってのませたとあっては
「ほんとうにお怒りだったわけではないの?」
首をかしげながら、夫はポットから新しいコーヒーをそそぎ、妻にわたした。
「もちろん、怒りもあるでしょうけれど、本音では悪くない取引だと思っているはずですよ」
「悪くない取引? どのあたりが?」
「兄は、リアナ陛下のお命を狙ったことがあったのですよ。政治的な取引で、おとがめなしということになりましたが。……それが、王に対する大きな借りになっているのです」
夫もよく知っている件ではあったが、ブリギットはあえて説明した。
「それが……この件で帳消しになると?」夫は眉をしかめた。政治的な取引に娘が利用されたとあっては、面白いはずがない。
「……とはいかないでしょうが、公の負い目はすこしばかり軽くなるでしょう。そもそもデイミオン王が縁談を断ること自体、兄のなかでは折りこみ済みだったでしょうしね」
「そうなのかい?」夫は目を見張った。
「『エクハリトスの雄竜は、つがいの一頭に執着する』と昔から申します」
「ああ……」夫はふくみ笑いをした。「聞くまでもなかったね。われわれの仲は、ヒュダリオン卿がとりもってくださったようなものだし」
かれら夫婦は、ヒュダリオン卿とほぼ同年代で、社交の場でもよく顔を合わせたものだった。おまけに、かの貴公子とは
「ヒュダリオン卿と来たら――このタウンハウスまでのこのことやってきて、第一声が『妻に言われて来たが、やっぱり貴殿との縁談をやめにしたい』でしたからね」
ブリギットはため息をついた。「おまけに、一人じゃ断れないなんて言って
「長いことご学友を務めさせていただいたけど、きみの前で閣下が土下座したのは、見ものだったなあ。『妻が妻が』じゃ、かれもデイミオン王といい勝負だったね」
思いだしたように笑う夫を見ながら、ブリギットも思わず笑みがこぼれる。
デイミオン王が嵐そのもののように去ったあとには、娘も
エクハリトス家の男たち。
乙女の心をとろかすような美貌と、古竜の
そして、つがいのただ一頭だけを、洞窟に
女性に変な気を持たせないという意味では、初恋におあつらえ向きの男たちかもしれないなどと、いまや大人になったブリギットは思うのであった。
「だけど、やっぱり心配だなあ」
自分で淹れたコーヒーを口にはこび、夫はのんびりと言った。「僕たちの娘は、お城でちゃんとやれているかしら」
「心配には及びませんよ。公もついていますし、あの子はよい友人を持っているようですからね」
自分の言葉に自分で納得してうなずくと、ブリギットはカップを受け皿に戻した。そろそろ、南部の領地に戻る頃あいだと計画を立てはじめていた。自慢の娘には、いつまでも親の
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