2 ある若者の変貌
「見つめ合っててもしょうがない。先を話します」
二宮は落ち着き払って言った。「僕はS氏に会って、警部が何かトラブルに巻き込まれているんじゃないかと心配していると伝えました。だから警部には内密でお願いしたいと。嘘ではないですからね。そうすると彼は、上司思いで感心だと言って、いろいろと話してくれました」
「……そんなキャラに見えるもんな」
ええ、おかげさまでと頷いて二宮は続けた。「十一月の事件が解決したとき、打ち上げの帰りに立ち寄った屋台で、S氏は警部に話したそうです。十年前に今回と似たような事件を担当したことがあったと。定年間近で、おまけに悲惨な事件が早期解決したから、つい機嫌が良くて口が滑らかになってたんだと思うって言ってました」
「
「よく憶えてるんですね。実はこの三月に退官されました」
「それで? 関谷さんは何の話を?」
「……いいんですね。全部暴きますよ」二宮は芹沢をじっと見た。「途中でごまかして逃げ出さないでくださいよ」
「望むところさ」と芹沢は肩をすくめた。
すると二宮はベンチの後方に設置された自販機に振り返り、「コーヒーでも飲みますか」と言いながら立ち上がって自販機の前まで行った。
「何飲みます?」
「何でもいい」
「じゃ、同じもので」
二宮は無糖のブラック缶を二つ買い、ベンチに戻ってきた。芹沢に渡し、自分の分のプルタブを開けて一口飲むと笑顔で「生き返る」と空を見上げた。
「――十年前の今日、休日の
「よくある話だな」と芹沢は肩をすくめた。「俺がこの前まで追ってた案件の容疑者も、証明は難しいが確かにイカれたやつだった」
「ええ。こういう仕事に就いてあらためて思います。世間には、極めて醜悪な犯罪に違いないのに、それが犯罪として成立しない事件がいかに多いかということを」
そして二宮はじっと芹沢を見据えた。同い年でありながら尊敬し、憧れにも似た気持ちで親しみを持ち始めた“仲間”を見る目ではなく、一人の人間の暗く歪んだ過去を暴こうとしている警察官の目で、目の前の男を見た。
「関谷さんはこんなことも話してくれました。その可哀想な被害者の女子大生は、事件当日、公園で恋人を待っていた。彼女は几帳面な性格で、約束の時間もきっちりと守る真面目な女の子だった。ところが相手の男子大学生はというと、そこについてはあまり褒められたものではなかった。その日もやっぱり彼は遅刻した。ところが、いつもなら彼が来るまで辛抱強く待ってくれているはずの彼女が、その日だけは待ちきれなかった。待っているあいだにとんでもない悲劇に見舞われて、彼女は二度と、遅れてくる恋人を優しく𠮟ることができなくなっていたから」
コーヒー缶を持つ芹沢の手に力が入った。指先が白く変わる。
「――事件発生後三十分経ってから現れたその恋人は、彼女の変わり果てた姿を見て、ひと言の言葉も発することができずにただ呆然と立ち尽くしていたのを、関谷さんはよく覚えてらっしゃいました。驚くのも、哀しむのも忘れて、何が起こったのかさえまともに理解できていない様子だったと。ところが関谷さんは、その青年が、少なくはあったけれども公判のすべてを傍聴していたのを知って初めて、彼の激しい後悔と怒りの情念に触れたのだと言ってました。そして関谷さんは何度か彼と話をした。そこで、血まみれの事件現場に蒼白な顔で突っ立っていたまだあどけなさの残る男の子が、僅かのあいだにすべての現実を呑み込んで、空恐ろしいまでに冷静になっていたのを目の当たりにして、彼がすでに、どこか取り返しのつかない状況にまで達してしまっていることを感じたそうです。それから数年して、青年が大阪で警察官になったことを風の噂で聞いたとき、関谷さんは、かつて彼と話したときの自分の勘に間違いがなかったことを確信したと、いくらか後悔しながら話してくれました。青年が何か良くないことを考えているんじゃないかって、あの人はそれを心配しているんです」
腕を組んでいた芹沢は、二宮と目が合うと顎をしゃくって話の続きを促した。
「その話を聞いて警部は事件に興味を持ったんだと思います。それで、当時の記録を探して青年の名前を調べた。大阪に知り合いの刑事がいるから、その人物を知っているか訊いてみると関谷さんに言ってたそうですから。十年前に十九歳と言ったら、あなたと同期か、そこそこ近いタイミングで府警に入っていると考えたんでしょうね。もしかしたら、その人物を可能な限りあなたに監視してもらおうとしたのかも知れない。つまり警部はその時点ではまだ気付いていなかった。それで、僕も同じことをしましたよ。ただし僕は一つの答えを確信して」
二宮は芹沢に振り返った。「参考人事情聴取の調書記録に残っていたその青年の名前を見たとき、警部はおそらく息を呑んだと思います。だってそこには――」
「俺の名前があったから」
「そうです」
芹沢はゆっくりと頷いた。「それでみちるは、また関谷さんに会って詳しく話を聞こうとしたんだな」
「そのようですね」
「……的外れなことを」芹沢はふんと鼻を鳴らした。
「そうでしょうか」二宮は首を捻った。「あなたは、実際の仕事以外のところで何かを――いえ、誰かを追ってるんじゃないですか」
「いいや。俺は誰も追っちゃいねえし、追うために府警に入ったんでもねえ」
「違う。あなたはそのときの男を探し出そうとしてる」
「それで復讐しようってか?」
「そうです」
「なんで俺が十年も前の女友達の仇を討たなきゃならねえんだ? そこまでお人好しじゃねえつもりだけどな」
「こうやって毎年命日にお参りに来てる」二宮はバケツの花束を見下ろした。「特別な花束だ。ただの友達じゃない」
芹沢は眉根を寄せた。二宮は続けた。
「関谷さんは言ってました。青年――つまりあなたは、殺された彼女に本当に一途な想いを抱いていたようだと。記録にあなたの名前を見つけたとき、僕はその言葉を思い出しました。それであなたを理解することができた。とんでもなく容姿に恵まれているのもありますが、警部という女性がいながら、クリスマスやバレンタインには多くの女性から山ほどの贈り物を受け取って、時には警部の目を盗んでつまみ食いもする。きっと、どこかで亡くなったその女性の面影を探してるんだ」
「妄想力もそこまでいくと立派だな」芹沢は言った。「ひょっとしておまえ、なかなかの恋愛
「いいえ。可愛い彼女もできたし、極めて順調ですよ」二宮は肩をすくめた。「話を逸らさないでください。それより認めたらどうなんですか。その女性を自分から奪った憎い男を探し出して、復讐しようとしてると」
「……何を根拠にそんなこと言ってる?」と芹沢は低く言った。「仮にそのときの犯人を恨んでるとしても、今の俺を見てみろよ。復讐ってやつのために何一つしようとしてねえし。だいいち、警察官になってそいつを見つけ出すなんて、回りくどいもいいとこだ。日々の過酷な仕事に忙殺されて、復讐どころか、探すことすら到底無理な話だ」
「そうでもないはずですよ」
二宮はふっと笑った。芹沢は片眉を上げ、面白くなさそうに二宮を見た。
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