3 プロポーズは今じゃない
西天満署をあとにした仁美は、マンションへの道すがら、一昨日の樋口との電話を思い出していた。
仁美は一昨日、樋口からプロポーズされたのだった。実家に帰っている理由を説明しようと仁美の方から電話したのだが、彼女が空き巣のことしか話さなかったのにもかかわらず、樋口はひどく心配してくれた。それが樋口のいいところでもあるし、また少し情けないところでもあるのだが、こともあろうに彼は、そんなタイミングで彼女に結婚を申し込んだのだった。しかも電話で。
――良かったら、僕と結婚してください
ありきたりだが誠実さに溢れた、樋口らしい言い方だった。
樋口からのプロポーズは意外でもなかったし、仁美も結婚を考えて彼を紹介してもらったのだから、いずれはこんなときが来るのを期待したこともあった。しかしそれがこうして現実のものとなると、実に呆気なく思えた。電話で言われたのがやや興醒めだったせいもある。けれども本当は、もっと別の理由で盛り上がれなかったというのが正直なところだった。
今、自分を取り巻いている、様々な謎に満ちた出来事や状況。これが解決を見るまでは、とてもではないが結婚のことなど考えられなかったし、また考えたくもなかったのだ。一人の男が殺され、二人の女性がいなくなり、また別の女性が拘置所の中で自由を奪われているときに、恋愛だとか結婚だとか、そんな話で浮かれていては申し訳ないような、いや、不謹慎だとさえ思えてくる。生きてるか死んでるか分からない人間がいて、また実際に死んだ人間もいてるっていうのに、結婚しようやて? あんた、なに言うてんの……?
もちろん樋口に落ち度などなかった。仁美は空き巣の話しかしていないのだし、また樋口はだからこそこの先ずっと仁美に一人暮らしをさせておくのが心配になったのだろう。考えてみれば、いやさほど考えなくても、これは深い愛情の表れだ。条件や人柄にまるで申し分なくて、しかも自分のことを想ってくれている。こんな幸運はこの先そういくつも訪れないだろう。二つ返事でOKしてもいい申し出だった。
しかし仁美は即答を避けた。どうしても今は結婚のことを考えられなかったのだ。それに、以前葉子に打ち明けていた通り、今ひとつ樋口では物足りないという気持ちが根強くあることも事実だった。当然、そういう気持ちは樋口には言えない。だから、じっくり考えたいから返事は少し待ってほしいと、それだけを言ったのだった。樋口ならきっと承知してくれるという確信があったからだ。案の定、樋口はいつまでも待つと言ってくれた。仁美は自分を卑怯な女だと思った。
マンションまであと少しと言うところで、仁美は旅行代理店のガラス窓に自分を映して、風に乱れた髪を直した。とりあえず今は、この事件の解決を待とう。素人の自分に何ができるわけでもなかったが、早く葉子を連れ戻してあげたいと思った。そして坂口郁代もだ。彼女はきっと岡本信哉殺しの犯人ではない。いや、きっとではなくて絶対に――。
マンションに着いた仁美は、エントランスホールのメールボックスの前に一人の女性が立っているのに出くわした。仁美は軽く会釈をして通り過ぎ、自動ドアの前に立ってセキュリティシステムのロックを解こうとバッグから鍵を取り出した。そのとき、女性が近付いてくるのを目の端で捉えた。
「あの――すいません」
「はい?」と仁美は振り返った。
「ここの住人の方ですよね?」
色の白い、小柄な女性だった。肩より少し長い黒髪が美しい。不安そうな眼差しで仁美を見つめて、少し首を傾げている。歳は仁美より五つは若いと思われた。
「そうですけど、どちら様ですか?」――セールスならお断りだ。
「いえ、あの、ここにお住いの佐伯さんという方をご存じやないかなと思って――」
「佐伯さん?」仁美は思わず訊き返した。「佐伯葉子さんのことですか?」
「ええ、そうです」
何という偶然、何という幸運。仁美は今、自分がものすごいチャンスを手にしようとしているのを強く感じていた。目の前の女性は、間違いなく田村芙美江かイシカワケイコのどちらかだ。ここで会ったが百年目、という古臭い表現が相応しいかどうかは別として、仁美はまさにそんな心境だった。何としても彼女の話を聞かなければ。それにはまず、自分が怪しい人物でないことを彼女に知らせなければならない。
「私、辻野仁美と言います。ここのオーナーの娘で、三階の三〇一号室に住んでいます」
「はあ、そうですか……」
「佐伯葉子さんの隣の部屋なんです」
「あ、そうなんですか」――少し緊張が緩んだ。
いいぞ。次は彼女の名前を確かめる番だ。さあ、どっちにする?
芹沢が高槻での目撃証言を聞いた高校生の観察力が正しいとすれば、田村芙美江は二十代後半のはずだ。すると、この女性は――
「あなた、ひょっとしてイシカワケイコさんですか?」
女性は目を見開いた。やった、当たりだ。
「どうして私の名前を――」
そう言うとケイコははっとした表情になり、後ずさりをした。
「あ、ちょっと待って。あたしは葉子の友人なんです。葉子からある程度の話は聞いてます。あなた、あの事件について何かご存じなんでしょう? 一度取材を断ったはずなのに、どうしてここへ来たんですか?」
「……佐伯さんはいるんですか」
「いません。長期の取材に出かけてて――」
そこまで言うと仁美は首を振った。「いいえ、もう正直に言いましょう。彼女は失踪したのよ。あの事件の取材を続けることで誰かから脅迫を受けて。今、警察が捜してるわ」
「えっ――」
「だからあなたにも、逃げないで知ってることを話してほしいんです。何かご存じなんでしょう? それとも、もしかして脅迫の犯人はあなた?」
「ち、違います。わたし、わたし――」
「落ち着いて。ここではあれだから、あたしの部屋に行きましょう」
仁美はケイコの肩を抱くようにしてドアをくぐった。
ケイコを居間に座らせた仁美は紅茶を淹れて運んできた。彼女の斜め向かいに座り、できるだけ圧迫感を与えないよう、穏やかな口調を心掛けて言った。
「――あのね。申し訳ないけど電話を一本掛けさせてほしいんです」
「……どこに?」
「警察に」
「警察って……」とケイコは露骨に怯えた顔をした。
「大丈夫。担当してるのは若い刑事やし、何も怖がることはありません」仁美は微笑んだ。「それにあなた、一度雑誌社に電話して葉子がいないと知ったのにもかかわらず、今度はここに来たということは、もうすでに何らかの覚悟を決めてらっしゃるんでしょう?」
「……ええ、まあ」
「だったら、いいですね?」
「分かりました」
仁美は頷いてスマートフォンを取り、西天満署刑事課直通の番号を押した。
《――刑事課》
出たのは芹沢だった。
「あ、あたし。辻野です」
芹沢はわざとらしくため息をついた。《……今度は何だよ》
「石川さんがマンションに葉子を訪ねて来られたの」
《え――!》と芹沢は声を上げた。《それで、いまどこに? まさかおまえ、帰しちまったんじゃ――》
「そんなヘマはせえへんわよ。あたしの部屋に来てもらってる」
仁美はケイコを見た。青ざめた顔を俯かせて、じっとテーブルの一点を見つめている。
《分かった。すぐ行く》
そう言うが早いが、芹沢は電話を切った。
芹沢は十分でマンションに到着した。仁美の部屋に来ると極めて紳士的な態度でケイコに自己紹介し、微笑みも絶やさなかった。そして彼女の名前が『慶子』と書くと分かったとき、綺麗な人に多い字だと思う、と褒めることも忘れなかった。そんな言葉もその顔で言えば十分な効き目があることを分かっているのではないかと仁美は思った。
「――私、内田さんとお付き合いしてるんです」
慶子は言った。
「そうだったんだ」と芹沢は頷いた。「確か、この秋にご結婚される予定だとか」
「ええ。でもそれももう白紙に戻そうと思ってます」
「どうして?」
仁美が訊いた。思わず自分のことを頭に過らせたのだ。
「私、内田さんはいい人だと思ってきました。いえ、正直に言うと、いい人だと思おうと努力してきたと言った方がいいかも知れません。あの
仁美は俯いた。ああ、胸が痛い。
そんな仁美を横目でちらりと見て、芹沢は慶子に訊いた。「いい人だと思おうとしてきたと言うのは、どういうことです?」
「一つだけ、引っかかることがあったんです……実は私も、一年前まで東栄商事にいたんです。彼のことは辞める以前から知っていました。彼もそうやったらしくて、私が退職すると聞いて交際を申し込んできたんです。でも、私は迷いました。なぜなら、彼が以前付き合っていた女性との間でどんなことがあったか、同僚から聞いて知っていましたから」
「それでも交際をオーケーしてしまったから、ずっと引っかかったままやったのね」
「そうです。自分なりに消化して彼の申し出を受け入れたはずなのに、ずっと気になって」
「……元カノとの間に何があったかって、そんなに気になるもんなのかな」
腕を組んで顎に手を当てた芹沢が言った。
「そこを気にしてられちゃ、誰とも付き合えへんよね。あんたみたいな人は」
「すげえ偏見」芹沢は言って、慶子に微笑んだ。「内田さんと元交際相手のあいだに、何があったんですか?」
「二人のあいだにと言うより、その女性自身に起きた出来事が、ちょっと――」
「説明していただけますか。長くなってもいいから」
慶子は芹沢を見つめたままゆっくりと頷いた。
「その
「ち、ちょっと待って!」仁美が叫んだ。
「――ったくうるせえなあ」
芹沢が迷惑そうに左耳を指で塞ぎ、仁美を睨み付けた。「今さら驚くなよ。俺はとっくに気が付いてたよ」
「あんたがどうだろうと、あたしは今気付いたんやからしょうがないいやんか」
「石川さん、続けて」
芹沢は仁美を無視して言った。
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