3 空に訊いてみろ


「――関谷さんから聞いた話は以上です。ここから先は、僕独自の調査です。得意のあらゆるネットワークを使ってね」二宮は言った。「警部が同じところまでたどり着いているかどうか、それは分かりません」

 芹沢が睨みつけてきた。しかし二宮は淡々と続けた。

「五年前、あなたが刑事になる直前、難波なんば署で制服警官をやっていた頃のことです。ある日あなたは警らに行くと言って派出所を出た。そして釜ヶ崎かまがさきのとある簡易ホテルの前で、ある男が出てくるのを待った。男はそのひと月ほど前に刑務所から出てきたばかりのチンピラで、シャバに戻っても凝りもせずにせっせとケチな盗みに精を出していた。あなたがそこへ行く前日にも、男は管内で盗みを働いていた。やがてホテルから男が出てきて、あなたは即座に彼を連行した。ここまでだと、あなたのやったことは多少の越権行為を疑われるにしろ、極めて正当で職務熱心な行動と判断できるでしょうね。でもその本当の目的は違った」

 二宮は言うと表情を厳しくした。「その男から、例の横浜の通り魔殺人犯の居所を訊き出すこと。なぜならその男は、憎んでも憎み切れない凶悪犯の腹違いの弟だったから」

 芹沢は黙ってコーヒー缶を眺めていた。

「残念ながら、あなたはそのとき目的を達成できなかった。でも、ある意味での最終目的を、その弟を身代わりに遂行したんです」

 二宮は立ち上がった。芹沢の前に立ちはだかり、そしてすぐにそばの柱に背を付けて庵の天井を仰いだ。苦痛に顔が歪み、嚙んだ唇が震えていた。

「――どうしても兄の居場所を吐こうとしない男を、あなたは街外れの無人倉庫に引きずり込んで、彼の顔をわずか数センチ外して数秒おきに五発の銃弾を発射した。兄の居場所を吐けと言ってね。彼は知ってて喋ろうとしなかったのか、それとも本当に知らなかったのか、今となっては分からずじまいだ。なぜなら、五発もの鉛弾が頭の真横を掠めていったことで、男は正気を失ったから」二宮は芹沢を見た。「彼は今、また鉄格子の向こう。ただし、今度は刑務所ではなく医療施設の隔離病棟のね」

 芹沢は鼻白んだ。「証拠でも残ってるのかよ」

「そう、つまりそこですよ」と二宮は言った。「さっきあなたは男を見つけ出すために警察官になるなんて回りくどいと言いましたね。確かに、目的はそこじゃないんです。警察官になれば見つけ出すことができると思ったんじゃない」

 二宮は柱から身体を起こし、あらためて芹沢に向き直った。「――つまり今、この国で合法的に人を殺せるのは、警察官だけです。だからなんだ」

 芹沢は首を捻った。「おっそろしいこと言うね」

「恐ろしいのはあなたです」と二宮は言い返した。「男からは何も訊き出せないと分かったとき、あなたは証拠隠滅を図った。彼を完全に狂わせることで、そこで何があったかはあなただけが知る結果になるように」

「もういいよ」

 今度は芹沢が立ち上がった。「それで? おまえはどうしようってんだ?」

「認めるんですね」

「……どこから仕入れたネタか知らねえが、ちゃんと自分の足で難波署へ行って当時の俺の報告書を読んでみろよ。やつはそばに転がってた鉄パイプで俺を殴って、なおかつ拳銃を奪おうとしやがったのさ。必死で守って、鉄パイプが雨のように振り下ろされてくる中を闇雲に撃った。やつの頭がおかしかったのは、そのずっと前からさ。ましてやあの野郎があの殺人犯の弟だったことなんて、ずっとあとで知ったことさ」

「確かに、報告書にはそう書いてあったようですね」と二宮はため息をついた。「また事実そうでないと、あなたは今、こうして警察官を続けられてないはずだ」

「だろ。そっちの想像だよ」

「かも知れない。でも事実、あなたは今でもあの犯人を捜しているんでしょう。福岡出身で、東京の大学を出たあなたが大阪府警に入ったのは、単に関西で就職した友達が多くいたからというだけじゃない。最後に男が確認された大阪に身を置きながら、いつか彼を見つけ出して、何らかの形で仇を討とうとしているんだ」

 芹沢は二宮を見た。「その通りさ――と言えばおまえは満足なんだろ。けど俺は誰も殺すなんて言ってないぜ」

「ええ。でも間違ったことには違いない」

「言ってくれるな。つい数カ月前に知り合ったばっかなのに」

「男に対する法的措置は済んでいるんです。あなたのやろうとしていることは、何の意味も無いことです」

「何の意味も無い?」

「そう、警察官にとってはね。芹沢さん、僕もあなたも警察官なんですよ。警察官をべるものは、上司でもなければ警視総監でも長官でもない。法律です。法律だけが我々を動かせるんです。その法律が男を追求することを許さない以上、あなたのやろうとしていることは無意味と言わざるを得ないんです」

「そうだろうな。でも、俺には意味のあることかも知れないぜ」

「警部はどうなるんですか――!」二宮は強く言った。「あなたのことを深く愛していて、もしかしたらこの事実を知っているかも知れない警部のことを、あなたはどう考えてるんですか?」

 芹沢は黙った。

「別れればいい、なんて安易なことを考えているんじゃないでしょうね。警部は納得しないでしょう。仮に、もしそうなったとしても、彼女はあなたのことを放っておきはしませんよ。あなたのその無意味な復讐を、全力で阻止しようとするはずです。彼女の、今までの輝かしい人生と、無限の可能性を持つこれからのキャリアをすべて犠牲にしてでも」二宮は悔しそうに唇を噛んだ。「それでもいいと言うんですか?」

 芹沢は二宮を睨みつけた。それを言うなんて、とでも言いたげだった。

「……あなたにだって、そんなことは耐えられないはずだ」二宮は押し込むように言った。「警部のことが大事なんでしょう?」

 芹沢は答えなかった。答えられなかった。

 すると二宮は今度は静かに語り始めた。

「――あなたも知っての通り、僕にだって同じ経験がある。僕の場合は恋人ではなく親友で、他殺と自殺という違いはありますけど。だから少しは分かるんです。だた、あなたのように不可抗力ではなく、僕は自分の臆病さのせいで助けることができなかった。だからあなたの悔しさとはまったく同じではないけれど、大切な人を死に追いやった相手が憎い、この手で成敗してやりたいっていう、そういう憎しみを持つのは当然だと思っています」

 芹沢は二宮を見た。何かに打ちのめされたような表情をしていた。

「……だけどね、芹沢さん。人は――人の心というのはいつか変わる。変えられるんですよ。どんなに濃密な憎しみで占領されていても、また別の人と関わりを持って、その人たちに癒されることで――乗り越えて、変わっていけるんです」

 二宮は申し訳なさそうに笑った。「それでまた、自分を責めてしまいそうになりますけどね」

 芹沢は項垂れて首を振った。そんなことは許されないだろうとでも言うように。

「亡くなった相手も、空の上から望んでいるに違いないんです。残された人間が憎しみや恨みにまみれて生きていくより、自分の分まで幸せな人生を送ることを」二宮は涙声だった。「……そうでないと、浮かばれないじゃないですか」

 芹沢は右手で顔を拭った。そのまま口を塞ぐ。嗚咽を漏らすまいとしているかのようだった。

 やがて二宮は大きく肩で息を吐いた。「……鍋島さんは、このことを?」

 芹沢は小さく頷くと自嘲気味に笑った。「俺も青かったのさ。今の署に配属になったときからあいつには気が許せて、つい口を滑らせちまった」

「認めてるんですか? あなたの考えていることを」

「まさか。あいつの性格がそんなこと許すはずがねえ。俺が打ち明けたとき、全部聞き終えてあいつは言った。『とんでもない話を聞かせてくれたもんやな』ってな。それから、『これでおまえと俺は腐れ縁や。どこまでもくっついて行ってやるから、覚悟しとけ』とも言った。しまったと思った。俺はあいつを、自分と同じ裏道に引きずり込んじまったんだ。俺になんか関わらなきゃ、父親以上にいい警官になるはずのあいつを」

「ずっとあなたのそばにいて、あなたの復讐を邪魔するつもりなんですね」

「そうさ。あいつは周りで言われてるような七光りのジュニアなんかじゃ絶対にないけど、配属に関わる人事に関しては親父の人脈をフルに利用するつもりらしい。今後ずっと、俺がどこに行こうが自分が監視し続けられるように」

 そして芹沢はここで初めて明らかな後悔の表情を浮かべた。小さく舌打ちし、拳を握り締めた。その姿を見て二宮はすっと肩の力を抜き、穏やかな顔をして言った。

「……警部と鍋島さんと、それに僕。芹沢さんは三人の人生を巻き込んだんですよ」

「別に俺は――」

「頼んだわけじゃないって? いやおうにも、ってことですよ」二宮は呆れたように笑った。「それだけ人と関わってるってことです。たとえあなたがそれを拒むような生き方を望もうとしても。だって人間は所詮、一人では生きていけない。生まれてくるときと死ぬときは一人でも、あとはそうはいかない。だったらやっぱり、考えを改めるべきなんだ」

 芹沢は疲れたようにため息をついた。まるで長いあいだ背負っていた重荷を下ろすかのようなため息だった。

「長くなりましたね」と二宮は腕時計を見て言った。「時間を取ってすいませんでした。どうぞお参りしてきてください」

 そして二宮は芹沢から空のコーヒー缶を受け取ると、自分の分と一緒に自販機の横のごみ箱に捨て、振り返って言った。

「お参りのあと、空を仰いでみてください。どうすべきか分かるはずです」

「……気が向いたらな」

 芹沢は諦めたように笑った。

 二宮はじゃあまた、と言って先に休憩所を後にした。


 二宮の姿が見えなくなってから、芹沢はバケツを持ってゆっくりと歩きだした。


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