7 ズルい女


 芹沢との電話以来、仁美はずっと暗い気持ちでいた。

 なぜこんなに不安が襲うのか、分かっているようでそうでもなかった。葉子の無事が確認されていないせいだろうか。それとも、芹沢が自分に言った言葉を憶えていなかったという、失望の事実を突きつけられたからだろうか。どちらも今の仁美にとってはひどく重大で、しかも見通しの暗い話だった。はたして葉子は生きているのだろうか。体裁上は紳士的で有能な成功者を装っておきながら、その素顔は非情で凶悪な殺人者だった峰尾に葉子は脅迫されていたのだから、彼女はもうこの世の人間ではなくなっているかも知れない。そして、そんなはずはない、そんなことはあってほしくないと思えば思うほど、仁美の脳裏には冷たくなってしまった葉子の顔が浮かんでは消え、消えては浮かび、同時に寒気を伴った恐怖が全身を包むのだった。

 そしてまた一方では、日に日に膨らんでいく芹沢への想いをあからさまに拒絶するがごとく、彼が確かに仁美に言った、『あんたは別さ』という、彼女にとっては嬉しかった言葉を全く憶えていなかったことを知らされて、すっかり落胆してしまった。

 先日、鍋島に会ったときに彼は、芹沢への気持ちを確かめることは「辛くなるだけや」と言った。まさにその通りだ。芹沢を想うことは、即ち辛い思いをするということ。それは彼に恋人がいるからではなく、彼自身に悲しい思いをさせられるということだったのだ。それでも勝手に想いが募るのは、実際は彼のプライベートについては何一つ知らないくせに、彼の持つ、さらりとしながらも時折強烈に漂わせる男としての色気と、並の人間にはない、どこか空恐ろしいまでの毒気に魅せられてしまったからだろうと分かっていた。そしてその思いを貫くには、自分が圧倒的に不利な立場にいることも。何しろ彼の恋人は彼にとって『奇跡』なのだから。

 親友が殺されたかもしれないという恐怖と、高まる想いを伝えることができない切なさ。そのどちらが原因かはっきりしない、しかし明らかにそのどちらに対する不安も払拭できないまま、仁美は憂鬱な時間をずっと引きずっていた。



 間の悪いことに、この日は仕事のあとで樋口と会う約束になっていた。樋口は会社の前まで車で迎えに来ており、仁美が社屋から出てくると、にこやかに走り寄ってきて彼女を助手席に迎え入れた。そして彼は神戸へと車を走らせ、味も雰囲気も申し分のないフレンチレストランへと彼女を案内した。樋口に優しくされればされるほど、仁美の心はどんどん彼から離れ、沈んでいった。

 帰りの車の中で、樋口はついにプロポーズの返事を訊いてきた。そして仁美がなかなかはっきり答えようとしないのに痺れを切らしたのか、いくぶん表情を硬くして言った。

「――きみがいろいろ迷っているのは分かってる。僕は決して高給取りでもないし、転勤も多いよ。それに長男だし、いずれは親の面倒を看ることになると思う。そのあたりできみが踏み切れないでいるのももっともなことだと、十分承知しているつもりだよ」樋口は仁美に振り返った。「違う?」

「あたし、そんな品定めみたいなことは何も」仁美は頭を振った。

「じゃあ、僕自身のことが気に入らないんだね」

「そんなこと――」

「でも僕はきみがいいんだ。これからの人生を一緒に過ごしたいと思うのはきみだけなんだ。きみがそばにいてくれたらそれでいい。一緒にいてくれるだけで僕は幸せなんだ」

 樋口は一途な眼差しでフロントガラスの真っ直ぐ向こうを見ながら噛みしめるように言うと、その濁りのない眼を仁美に向けた。

「……それだけじゃ駄目かな」

「あたしはそんな――」

「いや、そうなんだ。僕にとってきみはそういう女性ひとなんだ」

 仁美は俯いた。ここまで言ってくれる男性は、正直言って樋口が初めてだった。ありがたいと思った。同時に、今までの自分がこんな男性に出会ってこなかったことをまるで他人事のように哀れに思えてきた。たいていの男は結婚する前には何かと口上手くいっても、いざ籍を入れると途端に妻に構わなくなるそうだが、樋口は違うだろうという確信があった。彼は正直で真っ直ぐな男だ。その正直で真っ直ぐさが仁美に彼を物足りないと思わせた最大の原因だったが、そんな樋口がここまで言ってくれるのなら、彼と結婚してもきっと幸せになれるだろう。そして、それこそ、今までの自分が漠然とではあるが、ずっと夢見てきた望みでもあるはずなのだ。

 しかし、そう気付いてももう遅かった。樋口のような男性と結婚することが一番の幸せだと信じるには、仁美は長いあいだ、一人で過ごし過ぎた。いろんな人間を見過ぎたのだ。そして何よりも、今の彼女は芹沢という男を知ってしまったのだった。

「純一さん、あたし――」

「僕とじゃ、不満なんだね」

「えっ?」

「僕には魅力を感じない?」

「そんな――」仁美は悲しそうに樋口を見た。「そんなこと、思ってるはずがないわ」

 ごめん、と樋口は苦笑した。「答えに困るよね。こんなこと訊かれても」

「……もう少し待ってくれる? もう少し。もっとよく考えたいから」

 言いながら仁美は思った。あたしはなんて卑怯なんだろう。

 樋口はすぐには答えなかったが、仁美を想う気持ちが強いのだろう。やがてゆっくりと首を縦に振って言った。

「……分かったよ。じゃあ気持ちが固まったら言ってくれるかな。僕の方からはもうこの話はしないから」

「はい」

 仁美は窓に振り返った。磨き上げられたガラスに暗い顔の自分が映り、その肩越しに樋口の厳しい顔があった。

 やがて樋口はカーラジオのボリュームを上げた。DJの軽やかな曲紹介に続いて、ヒットチャートを賑わす女性ヴォーカルのバラードが流れ、それから手短なヘッドライン・ニュースに移った。

「――大阪府警西天満署は、殺人の罪で逮捕した西宮市の会社役員の供述に基づいて兵庫県川辺郡の山林の捜索を続けていたところ、昨日、死後三ヶ月以上経過したとみられる女性の遺体を発見し、家族の確認を取るとともに詳しい鑑定の結果、高槻市に住む飲食店勤務の田村芙美江さんであることが確認されました――」

 仁美は息を呑んだ。とうとう芙美江の遺体が発見された。では葉子はどうなのか。ニュースは葉子のことは言ってなかったが、実は彼女もまた峰尾に殺され、今頃どこかの山中に埋められているのか――


 ――お願い、どうか無事で。


 仁美はきつく目を閉じると、膝の上のバッグの持ち手を握り締めた。


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