2 娘のことは


 田村芙美江の実家はJR大阪環状線弁天町べんてんちょう駅のすぐ近くにあり、父親はその場所で規模は小さいが小綺麗なスーパーを営んでいた。

 店の裏手にある事務所で、母親の千佳子ちかこは刑事たちを前に、背中を丸めて古い丸椅子に座っていた。

「――あの子は、昔から家には寄り付かへん子でした」

 千佳子はぽつりと言った。

「親子関係がうまくいってらっしゃらなかったんですか」鍋島が訊いた。

「いいえ、特にそういうわけでは――」

 しかし千佳子はすぐに首を振った。「いえ、ほんまはそうやったのかも知れません」

「と、おっしゃいますと?」

 千佳子はゆっくりと顔を上げ、不安げな眼差しで二人を交互に見た。「あの……あの子の事情は――」

「ええ、申し訳ありませんが調べさせていただきました」と芹沢が言った。「芙美江さんはご夫婦の実子ではないんですね」

 田村芙美江は今から二十四年前、彼女が六歳のときに養子縁組によって田村家の長女となっていた。そして、彼女が田村家の戸籍に入る前の本籍は、の児童養護施設にあった。

「――私ら夫婦には長いあいだ子供がいてませんでした。主人の両親は二人とも体が弱く、私らが結婚した当初からずっと入退院を繰り返しておりましたから、それはもう跡取りのことを心配して……主人もそんな両親を何とか安心させてやりたいと思てたんやと思います。結婚して七年ほど経ったとき、知り合いを通じてあの施設を紹介されたんです」

 千佳子は湯呑みの茶をひと口啜り、乾いた唇を湿らせた。「最初は、男の子を希望してたんです。あくまで跡取りが欲しかったもんですから。施設の方もそのつもりで私らに男の子を紹介してくださいました。それでその子に会いに行ったんですけど、どうしてもその子が私らになついてくれなくて……何遍も通ったんですよ。そのうち、その男の子と仲の良かった芙美江が、私らが行くととても喜ぶようになって――私らもだんだんと情が移って、気が付いたら芙美江を養子に、と施設の方にお願いしてました。本当はそんなこと許可されへんらしいんですけど、芙美江があまりにも私らによう懐いてくれたんで、施設の方もそれやったらということで」

「なぜわざわざ津和野へ? 同じような施設は、近郊にもたくさんあるんじゃないですか」

「施設を紹介してくださった知り合いが津和野の方やったんです。私らも、できれば大阪とは離れたところから養子を迎えたいと思ってました。実の親が近くにいる可能性の少ないところで」

「芙美江さんはそれをご存じだったんですか?」

「ええ。あの子がうちへ来たときは六歳になってましたから、施設のことは後々ずっと憶えてるやろと思ったんです。それで主人と相談して、あの子が十歳になったときにきちんと話しました」

「芙美江さんの反応は?」

「十歳の子供にしては、ごく冷静やったと思います。私らも親として精一杯の愛情をあの子に注いできた自信がありましたし、あの子とはそれまで以上に絆が深まったと思います」

「それやのに、さっきおっしゃった、家に寄り付かへんとはどういうことですか?」

「その二年後に――私らに実子ができたんです。男の子でした」

「……そうですか」

 鍋島は思わずため息をついた。なんやねんそれ。その先の展開がもう、想像できて気が滅入るわ。

 鍋島の気持ちが見えたのか、千佳子は少し強い口調で続けた。

「せやからと言うて、あの子と息子を差別したつもりはありません。そこまで自分らがやってこれたのは、芙美江がいたからやと思ってましたし、息子には跡を継いでもらうつもりでしたが、芙美江にも充分なことをして嫁がせようと考えてましたから」

 千佳子は訴えかけるように言うと、すぐに下を向いた。「……けどもしかしたら、あの子だけが私ら夫婦の変化に気が付いてたのかも知れません。私らに対していっぺんも不満を口にするようなことはありませんでしたが、芙美江は芙美江なりに遠慮してたんやと思います。それまではとても活発やったのが、段々とおとなしくなって――私らは私らで、思春期やしかな、反抗期やしかなって、都合のええ解釈をしてたようにも思います。それで、大学に進むように言うてた私らに初めて逆らって東栄商事に就職を決めて、高校を出るとすぐに家を出ていきました。ほんまはもっと早くから出たかったのかも知れません」

「それから娘さんがどうしていたか、ご存じですか?」

「家を出ていってからの暮らしぶりまでは……私らも、その頃には芙美江の気持ちにようやく察しがつき始めていましたし、これからはあの子の自由にさせてやろうと決めたんです。もちろん、それはそれは心配でしたよ。けどもう、あの子を縛り付けるようなことはしないでおこうと――あの子がときどきふらりとここへ戻ってきたときも、いつもと変わらず迎えてやって、あれこれ訊くようなことはしませんでした。あの子も何も言いませんでしたし」

 千佳子はぼんやりと足元を見つめてため息をついた。「今から思うと、それがかえってあの子には水臭く映ったのかも知れません。本当の親なら、もっと我が子に干渉してくるはずやと思たと思います。それでも、あの子は育てた私らに恩を感じてくれたのか、何かと不自由に違いないのに、住民票をここに置いたままにすることで礼を尽くしてくれてるようでした。それと、毎月お金を送ってきて――恩返しのつもりでしょうか」

 それだけではないだろうと、偽名を使って暮らしていた芙美江の実情を知っている鍋島は思った。住民票を動かすということはすなわち、自分の居場所を追跡されるということだから。

「失礼ですが、送金はいくらですか」芹沢が訊いた。

「毎月五万円で、夏と冬には十万円ほどあります。きっとボーナスのつもりやと思います。全額貯金してあるんですけど、それが――」

 そこまで言うと千佳子はがっくりと肩を落とした。

「どうかしましたか?」

「……今年の一月を最後に、送られてこんようになりました」

「一月……」

 芹沢は呟くと鍋島に視線を送り、千佳子に訊いた。「一月のいつです?」

「確か――二十日頃やったと思います。いつも送金と同時に短い手紙を送って寄越すんですけど、そこに、成人式も過ぎたとかいうようなことが書いてありましたから」

「そこに書いてあった芙美江さんの住所、分かりますか」

 千佳子は首を振った。「書いてありません。いつもそうです」

「じゃあ、消印は?」

「覚えてません。それまではたいてい中央やったから、そのときもそうではないかと」

「お手数ですが、見せていただけませんか?」

「それは構いませんけど――」千佳子は怪訝そうに芹沢を見た。「あの、芙美江は本当に、さっき言うてはった殺人事件とは関係ないんですね?」

「今のところはそう考えています」と芹沢は答えた。「その事件の被疑者が去年まで芙美江さんと同居していたことには間違いないようなので、ぜひ芙美江さんに会ってお話を伺いたいと思いまして」

「……分かりました」

 千佳子は立ち上がって事務所から出て行った。母屋へと向かったようだ。


 芙美江からの最後の手紙は、やはり高槻で投函されていた。内容は、成人式も終わって世間がようやく正月気分から抜け出し始めたようだという時候の挨拶、自分は元気にしているが家族のみんなは元気かというようなこと、一月十八日にいつもの父親の口座あてに五万円振り込んだことがごく簡単に書かれていた。残念ながら、そこから芙美江の今の様子が推し量られるような手掛かりは見当たらなかった。

 二人はまた、千佳子に芙美江の写真を一枚貸してもらえないかと頼んだ。千佳子は母屋から一冊のアルバムを持ってくると、そこから五年前に親戚の結婚式で写したという芙美江の写真を剥がして渡してくれた。コバルトブルーのワンピースに真珠の三連ネックレスを着け、色打掛の花嫁の隣で穏やかな笑顔を浮かべている芙美江は、一目見たらそのまま釘付けになるほどの美しさに溢れていた。すらりと背が高く、色白で、繊細な顔立ちに輝く黒髪がよく似合っていた。この日最も美しく輝いているはずの新婦が、気の毒なことに霞んで見える。生みの親を知らないという身の上を知っているせいか、少し伏し目がちの切れ長の目が、心なしか物悲しそうにさえ感じられる。儚い感じの日本美人だった。


 帰り道、芹沢は運転をしながらひどく暗い表情で言った。

「――いったい、自分のためだけに生きてる時期ってのはあったのかな、芙美江って女には」

「性分なんやろ」鍋島もやりきれなさそうに言った。「いつも周りに気を遣って、頼まれる前に自分の方から犠牲を申し出て――そのうち周りもそれが当たり前のように思ってきて、彼女はどんどんきつい状況に追い込まれる。横領を手伝うたのも、家を出て行ったのも、もしかしたら養子に来たことさえも、みんなその性分からきてるんと違うか」

「挙げ句にゃ卑怯な中年男の愛人か」

「それでも、育ててくれた親に金を送ることは忘れへんかった。偽名は使ったものの、住民票は動かさんかった。もちろん足が付くことを恐れてのことやろけど、どこまでも自分勝手にはでけへんようになってしもたんやな」

「親に捨てられて、他人の顔色を伺いながら生きることを運命づけられた者のとるべき道ってわけか? 冗談じゃねえ」

「……まあな」

「それにしても、あの親はなんでもっと必死に捜そうとしねえんだ? 娘からの連絡が途絶えてかれこれもう三か月も経つってのによ」

「内心ほっとしてるんやないか」

「娘がいなくなってか? まさか」

「俺にはそう見えたけど」鍋島は突き放すように言った。「昔から家には寄りつかへん娘やったとか、自分らも気付かへんかった変化が娘だけには分かってたとか、それで自分らも娘の自由にさせてやろうと決めたとか。もうすっかり娘のことから手を引いて、血の繋がった親子三人水入らずでおさまってるような口ぶりやった」

「……ったく、気が滅入るな」と芹沢は小さくステアリングを叩いた。「どいつもこいつも、てめえのことばっかだ」

「それで精いっぱいなんや、みんな」鍋島は窓の外を見た。「俺らかて、そうたいして変わらんやろ」

 芹沢はため息をついた。そしてジャケットの内ポケットにしまっていた芙美江の写真を取り出して一度だけ目を落とすと、見ていられないとでも言うようにダッシュボードの上に放り投げた。

「――彼女、まだ生きてると思うか」

 鍋島はすぐには答えなかった。手には取らずに写真を眺め、その瞳に一瞬だけ苦痛の色を浮かべると、再び窓に顔を向けて呟くように言った。

「……今はまだはっきり言いたない」


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