第八章 迷路

1 彼女はどこへ


「――どうしてもやらなきゃならないことができたからと、そう言ったらしいです」

 持田は言った。「それで、坂口には迷惑かけられないからって」

「それだけ言って、田村はマンションを引き払ったんですか」芹沢が訊いた。

「ええ、それだけだそうです」

「突然言い出すなんて、何があったんやろ」

 二人は持田法律事務所に来ていた。田村芙美江が坂口郁代とのルームシェア生活を終えるときの様子を、拘置所の郁代から訊きだしておいてもらえるよう、持田に頼んであったのだ。

「具体的に何をするのか、坂口さんは問い質さなかったんですか」

「お互いの生活行動に干渉しないというのが、他人同士で共同生活を送る上での大切なルールですからね」

「それはよく分かりますが、この場合は話が別でしょう。ルームメイトが出て行くということは、たちまち自分の生活にも影響が出るということなんですから。さしあたって家賃負担が重くのしかかって、それって結構ヤバいと思うけど」

「確かに、僕も坂口にそう言いました。しかし、最初に自分が主契約者になってほしいと頼まれたときにも考えたように、村田――田村さんが男か借金から逃げてるんだと思ってたから、きっと足がつきそうになったんだと思ったって言うんです。それであえて何も訊かなかったと。そこが坂口のあっさりしているところと言うか、何に対しても無頓着なところなんですよ。長所にも、短所にもなりうる」

 持田は言うと思い出したように笑った。「自分にとって不利な状況証拠ばかりが揃っていることなど、たいしたことではないと思ってるんですからね。僕が、今までの方針とは一転して無罪の主張でいくと言ったときも、それまで僕にさんざん嚙みついてきた態度をコロッと変えて、もう何十年来もの友人のような話し方をする。まあ、おかげで僕も救われたところはありますが」

「坂口さんと田村芙美江は、まったく正反対の女性なんですね」

「本人もそう言ってましたよ。ごくたまに一緒に買い物に出掛けることもあったそうなんですが、服の趣味も食べ物の好みも、自分と江美子――つまり芙美江はまるで違ってたって、それでかえってウマが合ったみたいです。日頃の生活パターンも、郁代は商売柄、夜と昼が逆転していますから、終始顔を合わせているわけではなかったようですし。お互いやりやすかったんでしょう」

「当時の田村はどこに勤めていたんですか」

「正社員や派遣などの、いわゆる定職には就いていなかったそうですよ。一緒に暮らし始めた当初は、アルバイトで小さな会社の事務員をしていたようですが、途中で美容外科の受付に変わったそうですし。夏の繁忙期には、デパートの販売員と掛け持ちして、坂口にも従販セールの招待状をくれたこともあったとかで」

「確かに、偽名を使って身分を隠している以上は雇用保険や健康保険の加入対象になる立場での働き方はでけへんでしょうね。課税ギリギリのバイトをいくつもやるしかない」

「でも、たとえバイトでも本人確認書類の提出を一切求めないことってあるかな。何らかの偽造された書類は持ってたんじゃねえか」と芹沢。

「おそらくは。今は金次第でそういうものを用意してくれるサイトがいくらでも見つかる」と持田は頷いた。「それで、そのうちその美貌ですから、休日にはコンパニオンのようなこともやるようになって、部屋を引き払う少し前には、ホステスはどれくらい儲かるものなのかと坂口に訊いてきたそうです。坂口が、江美ちゃん――坂口がそう呼んでいたんですが――江美ちゃんのような人間はやめといた方がいい、潰されてしまうよと言ったら、彼女はいささか残念そうに笑っていたそうです」

「よほどまとまった金が必要だったみたいですね」

「ええ、そのようです。坂口は、堅実で質素な生活を送っている彼女が、なぜ急にそんなに忙しく働き始めたのか、ちょっと不思議に思ったそうです」

「迷惑かけられへんから出ていくっていうのが気になるな」

「その言葉で余計に彼女が誰かから逃げていると、坂口は確信したらしいんですが……何か危ない橋でも渡ろうとしていたんですかね」

「まあ、そう考えるのが自然ですね」

「――が、実際は田村には借金なんてなかった」と芹沢が言った。「横領の件が露見するのを恐れていたか、峰尾から完全に逃げようとしてたか」

「峰尾がマンションを訪ねてきたのは、いつのことやと言うてましたか、坂口さんは」

「去年の二月か三月頃だったそうです」

「どう言うて訪ねてきたんですか?」

「親戚の者だと言ったそうです」

「偽名のことも知ってたんやな。自分はちゃんと名乗ったんですか?」

「いいえ。ただ親戚とだけ言ったそうです。それで彼女がいないと知ると、さっさと帰って行ったと」

「で、坂口さんがその男を東栄商事の峰尾だと知ったのはいつ、どうやって?」

「彼が訪ねてきた翌日に、行きつけの美容院で読んだ雑誌に関西の大手企業の重役を紹介するページがあって、そこに偶然峰尾が載っていたのを見たとか」

「なんだか話がうまく出来すぎてるみたいだけど」

「ええ。だから最初は僕も、坂口がアリバイ主張のための噓を言ってるんだと思ったんです。けど、こうなってくるとそれもどうやら本当のようですよ。この前、その雑誌を探し当てて調べましたが、確かに峰尾氏が載っていました」持田は言うと自嘲気味に笑った。「弁護士たるもの、まずは依頼人を信じることが第一歩でした」

「峰尾がマンションを訪れたのは、その一度きりですか」

「ええ。それきりだったそうです」

「ところで、坂口さんの方は高槻にどういった縁があるんですか? 事件当日、彼女も高槻にいた理由です」

「あ、それはまったくの別件だったみたいです。以前同じ店に勤めていた女性を訪ねて行ったそうなんですが、一応は事前連絡を入れたものの、返信が来ないうちに会いに行ったもんだから、案の定留守だったそうです。その人物に会えてさえいれば、彼女のアリバイは成立したんですが」

「代わりに別の知人に会ったのに、相手はそれを否定した。よくよくついてないな」

「そういうことです」

「ということはつまり、坂口さんは峰尾が高槻にいたのは芙美江に会うためだとは気付いてなかったんですね」

「ええ。僕からその事情を聞いて、そうだったのかと得心してたくらいです」

「佐伯葉子のことはどうです? 芙美江から何か聞いてませんでしたか?」

 持田は首を振った。「知らないそうです」

 二人はため息をついてソファに背を預けた。持田がそれに合わせるように小さく肩をすくめる。

「高槻で田村芙美江を探すしかないな」

「そういうことや」



 それから二人は港区にある田村芙美江の実家へと向かった。車を走らせているあいだ、鍋島は昨夜の大牟田との一件を芹沢に話した。

「――苦労するな、おまえも」と運転席の芹沢は言った。「そんなの、ただの逆恨みじゃねえか」

 芹沢が涼しい顔であっさりと評価を下したのに、鍋島は思わず頬を緩めた。「かもな」

「気にするこたねえだろ。あっちももう口出ししねえって言ってるんだしよ」

「……ああ」

「おい、またか?」芹沢は鍋島の肩を拳でつついた。「三上サンの言うとおり、おまえの親父さんは間違ってなかったんだって」

「いや、親父のこととは違うんや」

「じゃあ何だ」

「こうなったら、何があっても真犯人ホンボシを挙げんとなって思って。ちょっとしたプレッシャーや」

「大丈夫さ。俺は峰尾が偽証してるっていう確信がある」芹沢は言った。「正直言って、石川慶子の話を聞くまでは半信半疑ってとこが無きにしも非ずだったけどよ。峰尾って野郎は、ありゃ生半可な悪人じゃねえな。内田の横領を会社に告発しなかったのも、やつに対する温情なんかじゃなくて、てめえの都合のいいように利用するためなんだからよ。必要とあらばまたやらせるくらいのつもりでいるはずさ。坂口郁代に至っては、助けてやろうなんて一ミリも思ってやしねえって」

「去年の暮れに川島君に目撃されたとき、一緒やった女は田村芙美江と考えて間違いない。彼女はそのひと月前に、突然坂口との同居を解消した――何か金の要る事情ができて、坂口に迷惑が掛からんように。これをどう解釈する?」

「それも峰尾が絡んでるのかもな。内田と共犯で横領を働いたときみたいに、やつもなにかヤバいことを企んでて、それを自分の手を汚さずに芙美江にやらせようとしたんじゃねえか」

「そうか。それには偽名で生活してる芙美江はもってこいの人物や」

「だろ。もしやつが自分との関係を隠すために偽名を使わせてたんなら、わざわざマンションに会いに行ったりしねえからな。坂口と一緒に住んでることくらい分かってただろうし」

「けど、なんで芙美江はそこまで峰尾の言いなりになんかなるんやろ。せっかく会社を辞めたんやし、その機会に手を切ったらよかったのに」

「そう簡単にはいかねえよ」

「なんで」

「峰尾には自分の犯罪のことを知られてる。自分で喋っちまったんだからしょうがねえや」

「脅されてたってわけか」

「だろうな。偽名を使ったのも、あるいは峰尾から逃げるためでもあったのかも」

「それが、意外にも簡単に見つかってしもた。でもどうやって?」

「峰尾が探偵でも雇って調べさせたんじゃねえか」

「そこまでするか? 相手は犯罪者やぞ。しかもいくら嫁さんが病気で、世間にありがちなこととはいえ、一応は不倫や。なんでそこまで執着する?」

「よっぽどいい女らしいぜ」

 鍋島は興味なさそうにふうんと鼻を鳴らした。

「会うてみたいもんや」



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