第七章 告発
1 週末の朝
翌朝、署の一階にあるロッカールームに現れた鍋島は、先に来ていた芹沢の隣にやって来ると自分のロッカーを開けながら言った。
「――どうやった」
「何が」
「昨日。警部は機嫌良く帰ったか」
「ああ……」芹沢は緩々と振り返った。「……鍋島さん、金貸してくださいよ」
「おっといきなり」
「いや、借りたって返せねえな。援助してくださいよ。とりあえず十万でいいです」
「えぇ~、どんだけ貢がされたんや」鍋島は眉をひそめた。「十三万のサンダルだけやなかったんか?」
「プラスメシ代。結局、高級イタリアンでした。で、
「徹底してるな。警部のお仕置きって」
「いや、途中からはただ食欲に歯止めが利かなくなったってだけ」
「一昨日は俺もびっくりした。あそこまで底なしの胃袋やったとは」
「あれで太らないんだから、どんなでっけえウンチ出せるんだろって思うよ」
鍋島はあははと笑った。「それ、思ってても口にせんやろ普通」
「これくらい言わせくれよ。本人には言ってねえんだから」
「まぁせいぜい、今日からまた頑張って働くんやな」
「ええっ、援助してくれないんですか?」
芹沢は大袈裟に悲しそうな顔を造って鍋島を見た。「鍋島さん、お高い指輪買おうとしてらして、それだけお稼ぎになってるのでは?」
「援助する理由が無い。つーかその腹立たしい敬語をやめろ」
「ヤケクソだよ」と芹沢は吐き捨てた。「とりあえずしばらくはメシ奢ってくれ。あと場合によってはおまえん家に食いにいく」
「うっそうそ、やめて」
「頼むよ。助けると思ってさ」芹沢は両手を顔の前で合わせた。「せめて食費は最小限に抑えたい」
「そもそも、堂島のレストランの一件が引き起こした結果やろ」鍋島は口を歪めた。
「あれは誤算だった」芹沢は舌打ちした。「ずっと前から誘われてて、たまたま会ったから、メシくらいならいいかと軽い気持ちで――美人だったし。でもまさかSNSに上げてるとはな。向こうも彼氏がいたから、そんなことしねえだろって油断してた」
「承認欲求が強いんやろ。美人はチヤホヤされるのが日常やから」
「三上サンは?」
「あの人の欲は、昔から知識欲に一本化されてる」鍋島はため息をついた。
「それも味気ないな」
「せやからいつも言うてるやろ、どっちもどっちって」
鍋島は言ってロッカーの扉をバタンと閉めた。「これに関してはお互い比較するのはもはや無意味やで」
芹沢は黙って肩をすくめると、自分もロッカーを施錠して鍋島のあとに続いた。
刑事部屋の前まで来たところで、二人はほぼ同時にため息をついた。間仕切り戸のすぐそばに仁美の姿を見つけたからだ。
「朝早よから、ご苦労なこと」
鍋島は小さく笑って呟いた。
二人が近付いていくと、仁美は彼らに気付いてにっこりと笑い、軽く会釈した。襟の大きく開いた濃紺のボーダーのカットソーに同色のスエードの七部丈パンツを合わせ、レザーメッシュの小さなバッグにミュールという、明らかに休日の装いだった。そう言えば今日は土曜日だ。
「何の用だよ」
近付いて来た仁美に芹沢が言った。「呼んだ覚えはねえけど」
「その後、どうなったか気になって」
「暇なやつはいいよな」
芹沢は仁美の前を掠めて間仕切り戸を開け、中に入った。鍋島もそれに続く。
「ち、ちょっと――」
デスクに向かう鍋島の背中に仁美は言った。鍋島は仁美に振り返った。
「悪いな。忙しいんや」
「早起きして京都から来たのに?」
「約束してたっけ?」と鍋島は肩をすくめた。「来るなら来るで、事前連絡ってもんがないと」
「どうせ断るんでしょ?」
そう言った仁美の顔を眺めると、鍋島はゆっくりと席に着き、腕を組んでふんと笑った。仁美も答えて笑い、隣の芹沢の席に腰を下ろした。
「話を聞かせてくれるのね?」
「――おいおいおい、座っていいって、誰が許したよ」
コーヒーを持って席に戻って来た芹沢が言った。
「自分の行動にいちいち誰かの許しが要るなんて、そんな人生送ってへんのよ、あたしは」仁美は芹沢に振り返った。「囚人やないんやから」
「マナーの問題だろうが」
「だったら、許可云々って言うのもおかしいわ」
「分かったよ、じゃあ勝手にしろ、ただし言っとくけど――」
「指図せんといてって言うてるでしょ」
仁美は言って、芹沢を見上げた。そのまましばらく二人は睨み合って、やがて芹沢が毒づいた。
「……何様のつもりなんだ、この女」
その様子を眺めていた鍋島はやれやれと首を振ると思い出したようにハッと目を見開き、立ち上がった。
「――あ、俺ちょっと行くわ。約束があった」
「ええ? なななんだよそれ」芹沢が振り返った。「ふざけんじゃねえぞ」
「いや、ホンマに。あのギターの兄ちゃんにアポ取ってたんやった」
もちろん嘘だったが、さすがに二人で仁美の相手をしている暇はない。鍋島は芹沢に目配せをして「昼メシは奢る」と言うと、仁美には「じゃな」と言ってまた間仕切り戸へと向かった。
芹沢は諦めのため息をついた。そして仁美に振り返ると、自分のデスクに置いたコーヒーカップを鍋島のデスクに移動させ、面白くなさそうに口を歪めて言った。
「あんたも飲むか」
「おかまいなく」仁美は満足げに微笑んだ。「それより、早く聞かせてよ」
「……話せる範囲だけだぜ」
芹沢は仕方なく腰を下ろすと、一昨日までに判明した事実を、証言者の個人情報などは伏せて仁美に説明した。仁美は途中で口を挟むことなく、神妙な顔つきでそれらの話に聞き入った。
「――高槻で峰尾と一緒やった女性って……田村芙美江さんかなあ、やっぱり」
一通りの説明が終わったあと、膝の上に置いたバッグに頬杖を突いた仁美は呟くように言った。
「それともイシカワケイコか」と芹沢。
「どんな女性やったって言うてたの? その証言者は」
「美人だったって。けど分からねえだろ。それだけじゃ」
そう言うと芹沢は眺めるように仁美を見た。「あんただって見ようによっちゃ美人だしな」
「なにそのど真ん中のセクハラ発言」
「褒めてるんだよ」
「褒めてるつもりならセーフだと思ってるとこがもう、終わってる」
仁美は嘲笑うように言って首を振った。「イケメンはこれだから。何を言っても許されると勘違い」
「それもまたハラスメントだよ」芹沢は言い返した。「イケメンハラスメント」
「自分で言うな、イケメンって」
「もういいよ」芹沢はため息をついた。「年恰好は、佐伯さんや坂口郁代と同じくらいだったって言うんだ」
「高校生でしょ。まだ若いし、女性の年齢を的確に見定めることができるかどうか、ちょっと怪しいわ」
「じゅうぶんだよ。高三って言やあ、異性に一番興味のある年頃だぜ」
「それはあなただけと違うの?」仁美はすかさず言った。「未だにそうみたいやけど」
「……るせえないちいち」
芹沢は小さく舌打ちすると、気を取り直したように背筋を伸ばして言った。「――さてと、これくらいにしてもらおうかな。遠いとこわざわざご苦労だったけど、こっちだってさすがに出勤早々いつまでも喋ってらんねえよ」
「……分かった」仁美はゆっくりと立ち上がった。「でもええねん。マンションに寄って帰るから」
「マンションに?」芹沢は眉をひそめた。「そのまま居座ろうってんじゃねえだろうな」
「しつこい。ちゃんと帰るわよ。ポストに何か入ってへんか、見に行くだけよ」
「ならいいけど」
「あ、そうや。ついでに葉子の部屋のポストも確認しとこう」
「また犯罪行為だ」と芹沢は笑って言った。「だったら、俺はあんたの逮捕状を取りに裁判所にでも行くよ」
「首を洗って待ってるわ」
「ほんとだな」
芹沢は自分の首の後ろに手をやり、片目を閉じて仁美を見下ろした。
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