5 指輪への思い


 午後七時を回り、一時間ほど前にくらべると人気ひとけが減った刑事部屋で、鍋島と芹沢は近所のイタリアンレストランから調達したデリバリーの夕食を摂っていた。

 生シラスのブルスケッタに剣先イカと彩り野菜のカルパッチョ、鶏むね肉のロースト、ビスマルクピッツァ、食後のエスプレッソコーヒーが届いたとき、刑事部屋にはニンニクとオリーブオイル、そしてコーヒーの芳醇な香りが瞬く間に広がった。二人は他の捜査員たちから呆れられ、課長から大目玉を食らった。実はそうなることは想定内で、それでもこの料理を頼もうと主張したのは鍋島だった。大牟田の件で激しく独りよがりな自己嫌悪と猛烈な逃避願望に襲われ、盛大に馬鹿なことをしたくなったのだ。欲を言えばドリンクメニューの中にコルテーゼ種のプロフィーロを見つけて、ボトルで飲みたかったくらいだ。もう少しで注文するところを芹沢に説得され、思いとどまったのだから誉めてほしいものだと本気で思った。


「――鍋島巡査部長」

 後ろから声を掛けられ、鍋島はピザを片手に緩々と振り返った。刑事課の庶務を担当している市原いちはら香代かよが微妙に気の毒そうな眼差しで微笑みながら、半身を斜め後ろに下げて言った。

「お客さまです。東堂とうどうさんとおっしゃる方です」

「あ……」

 鍋島は立ち上がり、カウンターの向こうの廊下を見た。芹沢も振り返る。

 三十代後半くらいの女性が立っていた。鍋島と目が合うとゆっくりと模範的なお辞儀をし、顔を上げてこれもまたお手本のような笑顔で「こんばんわ」と言った。濃紺のスーツ姿に黒革のショルダーバッグ、手には少し小ぶりのアタッシュケースを持っている。艶のある黒髪をシニヨンにまとめ、卵型の小さな顔に切れ長の瞳と小さな鼻と口がバランス良く配置された、東洋人のチャームポイントを全面に表現しているような女性だった。

「どうも……」

 鍋島はぺこりと頭を下げた。ピザをトレーに置き、紙ナプキンで口元を拭うと女性に近付いていった。

 女性と一言二言話し、やがて鍋島は彼女を案内して向かい側の小会議室へと消えていった。

 その様子を香代とともに見守っていた芹沢は、そばに立っていた彼女を見上げると訊いた。

「誰?」

「さあ。でも確か先月も一度いらしてましたよね。そのときはアポを取ってらしたみたいでしたけど、巡査部長の手が空かないからそのまま帰られたんじゃなかったかな」

「……ああ、ジュエリーショップの担当さん」芹沢は頷いた。「ついに乗り込んできたか」

「え、どういうことですか?」今度は香代が訊いた。

「優柔不断なクライアントに痺れを切らしたのさ」芹沢はエスプレッソを飲んだ。「婚約指輪エンゲージリングくらい、ちゃちゃっと選べねえもんかね」

 そう言って椅子をデスクに向けて戻し、ピザの残りを食べようとしたとき、香代から漂う不穏な気配を感じた芹沢は恐る恐る彼女を見た。

「あ」

 香代は腕組みして首を捻り、軽蔑の眼差しで見下ろしていた。明らかに不味いことを言ったのだと察した。

「……ほんと、つくづく残念ですよね芹沢さんって」香代はため息をついた。「さっさと地獄に堕ちればいいのに」

 そう言い捨てて立ち去っていく香代を呆然と見送りながら、芹沢は「え、ひどくね?」と独り言を呟いた。



 会議室に入り、東堂に席を勧めた鍋島は彼女にコーヒーの好みを訊いた。すると東堂は「お気遣いなく。アポなしで参りましたので」と辞退した。鍋島は何となく居心地の悪さを感じながら、東堂の向かい側に腰を下ろした。

「――鍋島様、大変申し訳ございません。お仕事場にまで押し掛けてしまって」

 相変わらず完璧に整った笑顔を保ったまま鍋島をまっすぐに見て言うと、東堂は深々と頭を下げた。

「い、いえ、大丈夫です。僕の方こそ、何度も電話もらってたのに返事できなくてごめんなさい」鍋島も頭を下げた。

「お忙しかったんですよね。わたし、普段あまりテレビを観ないもので――昨日、たまたま冤罪事件のニュースを見て、これってひょっとしたら鍋島様の手掛けていらっしゃる事件かしらって」

「あ、いや――まあ」

「ご職業は伺っていましたけど、改めて大変なお仕事をなさってるんだわって思いました」東堂は感心したように頷いた。「それで、はしたないことですけど、つい好奇心が湧いて――鍋島様がお仕事されているご様子を見たくなって。ご迷惑を承知でこうしてお訪ねした次第です」

 そう言うと東堂はもう一度頭を下げた。「ですので、もしご迷惑なら躊躇なくおっしゃってください。すぐに退散いたしますので」

「いえ、ほんまに大丈夫です。のんびり食事してたくらいやから――」

 すると鍋島はあっ、と目を見開いて口元に手を当てた。「すいません、もしかしたらニンニク臭いかも」

「いいえ、全然」東堂はにこにこと笑って手を振った。

 鍋島は頭を掻き、それから一つ咳払いをして言った。

「それで――指輪の返事ですよね。三つの候補のうち、どれにするのかっていう」

「……決まりましたか?」東堂は小さく首を傾げた。

「ええ、まぁ……あ、いや――」

「まだお迷いのようですね」

「はぁ――すいません」

 困った顔で頭を下げる鍋島に、東堂は「それならば」と言って小さく頷くと隣の椅子に向き直り、置いていたアタッシュケースを開けた。そして中からシルバーの指輪ケースを取り出し、両手を添えてテーブルに置いた。

「これは――」鍋島はケースを見つめた。

「開けてみてください」東堂は言った。

 鍋島はケースを手元に寄せ、ゆっくりと開けた。

 ホワイトゴールドのS字リングに、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンドがあしらわれた指輪が収まっていた。このところずっと色々な婚約指輪を見ていた鍋島にもダイヤの大きさが分かるようになってきていて、だいたい0.7カラットくらいだなと推察した。

「これは初めて見ますね」鍋島は目線を上げて言った。「東堂さんのお薦めですか」

「いえ、実を言うと、当店の品ではないのです」

「というと?」

「リメイクしたものです」

「リメイク?」

「ええ。三上様からお預かりした立爪ダイヤの指輪を、三上様のご希望に添ってリメイクさせていただきました」

「……どういうことですか?」鍋島は明らかに困惑して言った。

 リメイク品とはどういうことだ。自分がどの指輪にするかなかなか選べないでいるのは、金銭的な理由からだと麗子に思われているのか。だからリメイク品を――

 いや、待て。リメイク前の指輪は麗子が持ち込んだということは、その指輪はつまり――

「リメイク前の指輪って――」

「三上様のお母様の指輪です」東堂は静かに答えた。「お形見、ですね」

「ああ……」

「ご説明させていただきます。少し長くなりますが、お時間いただけますでしょうか?」

「大丈夫です」

 ありがとうございます、と東堂は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべて言うと改めて居住まいを正し、鍋島を真っ直ぐに見て話し始めた。

「お二人で初めて当店にお越しいただいたのは――二ヶ月ほど前、三月の初めでございましたね。私が担当させていただくことになって、いろいろとお二人のお話を伺って」

 鍋島は小さく頷いた。

「その中で、結婚指輪については比較的スムーズにお選びいただけたものの、婚約指輪のご購入に関しては三上様があまり乗り気ではないという主旨のことをお伺いしました。正直、私は少し意外でした。あくまで一般的な傾向ですが、婚約指輪に関しては女性の方が俄然前向きで、男性はそれほどでもない場合がほとんどでしたから。ですので、これはじっくりとご相談させていただかなければと思い、婚約指輪についてはあの日はあくまでお二人のお話を伺うことにとどめて、結婚指輪についてだけお話を進めさせていただいたのです」

 東堂は極めて淡々と話すと、そこでコホンと小さく一つ咳払いをし、続けて話し出した。

「――すると、あの数日後のことでした。三上様が、お母様の形見の指輪を持って、お一人でお見えになって――」

「ち、ちょっと待ってください。あの、やっぱりコーヒー淹れてきます」鍋島は手を上げて東堂を制した。

「いえ、それは」

「ほんとに。すぐ、すぐ持ってきますから、待っててください」

 そう言いつつ鍋島は急いで部屋を出た。何か、ひどくしんどくなるような話だったらどうしよう、だったらそれは今日はちょっときついなと思いながら刑事部屋に戻り、のろのろと、しかし張り詰めたままの気持ちでコーヒーを淹れ、再び会議室に向かった。


 コーヒーを前に東堂はまた丁寧な礼を言い、両手でカップを持って一口飲むと、「ホッとしますね」と微笑んだ。

 そして東堂は話を再開した。

 二人で最初に宝石店を訪れた三日ほどあとのこと。東堂を訪ねてきた麗子が、昔ながらのダイヤモンドの立爪の指輪を差し出して、東堂にある頼みごとをしたという。 

「頼みごと――」鍋島はぼんやりと呟いた。

「はい。その前に、実はご自分が婚約指輪のことで迷っているのには理由がおありなのだとおっしゃいました。鍋島様が自分に指輪を贈ろうとしてくれているのはとても嬉しいし、素直にそれを受け入れればいいと思っているのだけれど、その一方で、昨年亡くなられたお母様の指輪を――三十一年前にお父様から贈られたものだそうです――できれば結婚の節目に身に着けたいとお考えになっておられるということでした。だだしさすがに古いデザインなので、リメイクを施した上で。そしてそこには、一人娘の結婚に立ち会えなかった亡きお母様への感謝と、ご自身の今の幸せの報告の意味を込めたいのだとおっしゃいました。そのお話を伺って、私は是非そういたしましょうと言いました。すると三上様は首をお振りになって、あくまでこれは自分一人の望みだから、鍋島様が自分に選んでくれる指輪が決まっているのであれば、それを受け取りたいということでした。だから、お母様の指輪をリメイクするのはあくまでご自身の意向であって、新しい婚約指輪は要らないということではないのだと。曖昧なことで申し訳ないけれど、古い指輪のリメイクだけの場合と、リメイクした上で新しい指輪も購入する場合の、両方のケースで心積りをしておいてもらいたい、とのことでした」

 東堂はここでコーヒーを一口飲んだ。そして今度は今までとは打って変わって歯切れの悪い口調になって続けた。「――その上でですね。三上様はあの、こうおっしゃいました。鍋島様は普段から、なかなかこう……何と言いますか、一つのことをお決めになるのに、その……いろいろと深くお考えになるせいか、時間の掛かる方だとのことで――」

「優柔不断って言うたんでしょ」鍋島は自嘲気味に笑った。

「……あ、ええ、まぁ、はい」東堂は困ったように笑った。

「それで?」

「そういうときは、誰か近しい人間がさりげなく彼の背中を押してあげなければならないのだとおっしゃいました。そして、それは大概の場合自分の役目なのだと」東堂は穏やかに微笑んだ。「ですから、今回も鍋島様がお迷いになっている場合は、このリメイクした指輪を婚約指輪として選び、鍋島様に異存が無ければ、リメイク費用をご負担してもらうことで、鍋島様から三上様への贈り物としていただけるよう、私の方から鍋島様へご提案願えないか、とのご依頼をいただいたのです」

「……そうですか……」

 鍋島は呆然と東堂を眺めながら、椅子の背もたれに身体を預けた。

 ああ、俺はまたやってしまってるなと思った。指輪選びに関する迷いを麗子に全部見透かされていることは、今さら不甲斐ないとか申し訳ないとは思わないけれど、彼女が婚約指輪を贈られることに抵抗していた理由を察することが出来なかったことについて、どうしようもなく情けない思いに襲われた。もちろん彼女にはこれまでも何度となく問い質してきた。しかし彼女から「必要性を感じない」という主旨のことを聞かされて、それをほぼ鵜呑みにしてしまっていた。それで意地になって贈ることを決めたものの、やはりどこかでもやもやした気持ちが拭えなかったのだ。だから結局、何も決められず、結果こうしてみっともない状況を迎えてしまっている。

 鍋島は言った。「彼女は、この指輪を気に入ってるんですね?」

「ええ。ただ実はこの段階ではまだ完成という訳ではございません。三上様にもご覧いただき、ご納得いただけたのち、最後の仕上げの工程に移ります」

「そうなんですか」鍋島は指輪を見た。「そんな風には見えへんけど。もう出来上がってる感じで」

「最高の品質をご提供させていただくのが、私どもの当たり前の仕事ですので」東堂は晴れ晴れと微笑んだ。

「分かりました。ではこの指輪を婚約指輪として彼女に贈ります。せっかくいろいろと選んでもらったのに、決められなくてすいません。その上、親身になって相談に乗っていただいて――感謝します」鍋島は深々と頭を下げた。

「とんでもございません。それもまた、私どもの当然の使命だと自負しております」

 その自信に満ちた笑顔を見ながら、この人に担当してもらって良かったと鍋島は思った。

 そして鍋島はもう一度指輪を見た。繊細で気品漂う中に可憐さも併せ持ち、一点の曇りもない輝きを放つそのオーラを受け止めながら、そうだ、俺はまさにこんな指輪を探していたのだと悟っていた。


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