第五章 接点

1 揺れる水面(みなも)


 内田啓介は東栄商事本社のエントランスロビーで二人を出迎えたあと、すぐ向かいのビルにあるカフェへと彼らを誘った。

 カフェはモーニングサービスの時間真っ只中で、どこのテーブルもコーヒーとトーストを前にしたスーツ姿の男女で埋まっていた。三人はカウンターでそれぞれに好みのコーヒーを注文し、奥へと細長い店内の一番手前に一つだけ空いていたテーブル席に腰を下ろした。

 内田は自分と同じ年頃の人間が相手だと分かったせいか、最初に現れたときよりもいくぶんリラックスした表情で、親しみやすい笑顔を浮かべて二人を見ていた。小さな顔に完成されたそれぞれの部品が上品な配置で並んでいて、いかにも育ちが良さそうだった。糊の効いた真っ白のタブカラーシャツにはっきりした色調の幾何学模様のネクタイが引き締まった印象を与えており、袖口から覗くスモールダイヤル付きの洒落た腕時計と、テーブルの端に置いたシステム手帳とスマートフォンが、商社マンらしい垢抜けた雰囲気を漂わせていた。「清潔」とか「爽やか」とか言う言葉がぴったりくる、典型的な好青年である。しかし、まったく同じ格好を向かいに座っている芹沢がすれば、内田はたちまち霞んで見えるだろう。イケメンだと言っても、芹沢のような得体の知れない毒気と冷たい色気の無い分、内田の薄っぺらな感じは拭えなかった。


「――昨日は留守にしておりまして、申し訳ありませんでした」

 内田は初めに会ったときと同じ言葉を繰り返した。

「いいえ。こちらが突然お会いしたいと峰尾部長にお願いしたものですから」

 鍋島は言うとコーヒーに口をつけた。

「今日は持田先生は?」

「公判の準備がありまして、失礼させていただきました」

 鍋島は言って芹沢に顔を向けた。「彼は――パラリーガルの芹沢です」

「よろしく」

 芹沢は丁寧に頭を下げた。内田もそれに倣い、上体を起こすと言った。

「持田先生とは一度お話しさせていただいたんですが、まだ何か?」

「はあ。昨日も峰尾部長に申し上げたんですが――あ、峰尾さんから聞かれましたか? 昨日のわたしどもとの話」

「いいえ、何も」

「そうですか」――嘘つけ。しっかり打ち合わせ済みだろうが。鍋島はじっと内田を見つめた。

「依頼人の坂口郁代が依然として犯行を否認していますので、うちの先生としても、依頼人がそう主張する以上はもう一度事件を調べ直す必要があるかと――」

「弁護士さんも大変ですね」と内田は肩をすくめた。

「で、同じことを何度も訊くようで悪いんですけど、もう一度峰尾部長のお宅に行かれたときのことを話していただけたらと思いまして」

「分かりました」

「峰尾さんのお宅に行かれたのは、一月三十日で間違いありませんね」

「はい」

「何時ごろでしたか」

「五時半ごろだったと思います。僕の家から部長のお宅までは阪急で四駅、どちらにも快速が停まりますから時間にして十分もあれば着きます。僕が家を出たのが五時少し前でしたから、電車の待ち時間や駅から部長のお宅までのタクシー移動の時間を考慮に入れても、五時半には向こうに着いていたはずです。部長にも五時半にお伺いすると伝えてありましたから、遅れないようにと気を遣っていましたし」

「それから何時までいたんですか?」

「十時前頃だったかな――タクシーで駅まで行って、夜はどうしても電車の間隔が空くのでホームで少し待って、家に着いたときには十時半を過ぎていましたから」

「峰尾部長は、あなたが仲人を頼んできたとおっしゃってましたが」

「ええ、そうです」と内田はここで嬉しそうに笑った。「この秋に結婚する予定なんです」

「それにしては、ずいぶん長いあいだ部長のお宅にいたんですね」鍋島は言った。「仲人を頼むくらいで、そんなに長居しますか?」

「どういうことです?」内田はちょっと顔を曇らせた。

「いや、実は僕もこのあいだ、媒酌人を頼みに行ったんですけど、承諾をもらったあとはそんなに話すこともなくて。適当な世間話で間を持たせるのに苦労したって感じでしたけど」

「どなたにお願いされたんですか?」

「大学の恩師です」

「その方とは、卒業後も頻繁にお会いになってるんですか?」

「いいえ。年に一度程度です」

「だからですよ。こう言っては何ですけど、学校を出て何年も経っていて、年に一度程度顔を合わせるくらいの関係だと、恩師とは言ってもそれほど込み入った話はしないでしょう。しかし、僕にとって峰尾部長は今の職場の上司ですから、仕事に関する話は尽きません。特に、日頃会社ではゆっくりと出来ない話なんかをね」

「なるほど」

 上出来やないか。とりつく島もない。それどころか、こっちが論破されている。しかし、鍋島は内田の話を信用したわけではなかった。

 ――仕事の話やて? ええ加減なことを言うな。おまえとあのおっさんとのあいだに、どんな仕事の話があるって言うんや。向こうは取締役で、おまえはただの一般社員やで。あいだに何人の役席がいてる? 例えば俺と署長が、二人だけで何時間も捜査の話をするようなもんやろ。ありえへんな。だいいち、おまえにとってあのおっさんは、時間に遅れることを気にせなあかんような相手と違うのか――。

「話は変わりますが、坂口郁代とは以前に面識はありませんでしたか?」芹沢が訊いた。

「ええ、まったく。名指しされた部長もご存じないんだから、僕にあるはずありません」

「では、村田江美子という女性は?」

「いいえ、どこの誰です?」

「坂口郁代のルームメイトです」

「ああ……やっぱり知りませんね」

「それじゃ、佐伯葉子はどうですか?」

 内田は笑って首を振った。「結婚を控えてる男が、そんなに若い女性ばかり知っていたら婚約破棄されますよ」

「あなたなら、婚約者以外にも女性の一人や二人、よくご存じなんじゃないですか」

「まさか。僕はまるで奥手でしてね」

「へえ。そりゃ意外だ」

 そう言うと芹沢は内田をじっと見据えた。「内田さんは、津和野へ行ったことはありますか」

「津和野?」内田はコーヒーカップをソーサーに置いた。「島根県の津和野ですか?」

「ええ、そうです」

「行ったことないなあ、山陰地方へは」

「どなたかそのあたりの方をご存じないですか? 出身がそこだと言う方でも結構です」

「知り合いの一人一人の出身地まで把握しているわけではないのでね。少なくとも僕の記憶に残っている限りでは、そういう方はいらっしゃいません」

「そうですか」

「津和野がどうかしたんですか?」

「ええ、まあ」

 ようやく網にかかった。さっき、三人の女性の名前を出して内田の反応をうかがったとき、芹沢はプラス反応だと認めた。結婚を控えている自分がそんなに若い女性を知っているのは都合が悪いと内田は言った。そう、彼は知っているのだ。坂口郁代はともかく、村田江美子と佐伯葉子もまた若い女性だと。そして芹沢はそこにつけ込むことを忘れなかった。内田の顔色という池に、もう一つ石を投げてみた。佐伯が失踪前に訪ねていたらしい、津和野という石だ。すると、石は大きな同心円を描いて内田の心の底に沈んでいった。芹沢の推察は的中したのだ。内田は確実に佐伯葉子を知っている。そして、彼女が津和野へ行った理由も。

 芹沢はもう少し続けて石を投げてみることにした。

「週刊誌はよくお読みになりますか」

「週刊誌……ですか?」

 ――小さな同心円が現れた。

「ええ。『朝日』とか『文春』とか。あとは――関西誌では『タイム』とか」

「わざわざ買って読むようなことはしませんが、喫茶店に入ったときなんかにあれば読むかな」

 ――円が次第に消えていった。今度はイミテーションの石を投げてみる。

「じゃあ、この事件が各誌でどんな風に取り上げられているか、ご存じないんですね」

「えっ?」――大きな同心円。

「佐伯葉子はその中の一誌の専属ライターですよ。独自の切り口で取材を続け、事件についてまったく新しい見解を持っていたようです」

「……そうなんですか」

 ――円がどんどん広がっていく。内田はそれを消したくても消せないようだ。

「さて、あんまり長くお時間を取らせてはご迷惑だろうし、これで失礼しようか」

 芹沢は鍋島に言った。(収穫あったな。引き上げよう)の合図だ。

「そうですね。お仕事に差し障りが出る」

 そして鍋島は内田に笑いかけた。「どうも、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。帰って持田に報告しておきます」

「いいえ、こちらこそお役に立てなくて、申し訳ありません」

「じゃあ、僕たちはこれで」

 芹沢がテーブルの端に置かれた伝票を手に取った。

「あ、それはいけませんよ」内田は手を上げて首を振った。

「いいんですよ。こちらがお願いしてお話しいただいたんですから」芹沢はにっこり笑った。「お気遣いなく。経費で落としますから」

「経費ね」と内田も微笑んだ。「それはなおさら問題だ」

「どう問題なんです?」

 おかしなことを言うやつだ、と芹沢は内田の顔を覗き込んだ。

「だって、の経費は、すべてでしょう。無駄遣いはいけない」

「――――――」

 芹沢は思わず絶句したが、怯んではならないと内田をじっと見つめた。先に席を立って出口に向かっていた鍋島は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「……やっぱり、そうでしたか」

 内田は二人を交互に見ながら、小さく笑って静かに言った。「お二人とも、警察の方ですね」

 ――しまった、石を投げ過ぎた。最後のは特に大きかったようで、それでこっちにまで水飛沫みずしぶきが飛んできたのだ。

「……だったらどうだって言うんです」

 芹沢はそう言うのがやっとだった。




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